〈十六日目〉 平成21年5月2日 土曜日 晴れ 塩尻宿〜本山宿〜洗馬宿 
【塩尻宿続き】
 前回、雪の残る塩尻峠を越えたのは昨年の12月28日のことだった。寒風吹きすさぶ中を塩尻駅にたどり
着いた弥次喜多夫婦は、ほっとして蕎麦屋で熱燗を注文したのだった。

ただし、この4ヶ月間どこにも歩きに行かなかったわけではない。木曽路は遠いし寒いので、先に甲州道中に
挑戦していたのだった。2月から3月にかけて、日本橋から新撰組の故郷「日野宿」までを3日かけて歩いた。

あれから4か月が経ち、世の中はゴールデンウイークだ。今年は、16連休の会社もあるくらい世の中は百年
に一度の不況だと言われている。そんな中、高速道路がどこまで走っても1000円という施策が実施された。
少しでも安く歩きに出かけたい弥次喜多夫婦も、電車の不便な中山道に車で出かけることにしたのだった。
車で塩尻宿に到着

 まっとうに歳をとった弥次さんは目覚めるのが早い。2時半に目覚めた弥次さんは、喜多さんを無理やり起こし3時半には横浜の家を出発した。

思ったとおり、東名高速は大渋滞だ。横浜町田から東名に入ったとたん、ほとんど動かない。いつもなら40分で着く御殿場に2時間半かかって着いたが、それから先は渋滞もなく、富士五湖道路経由で大月ICに入り、順調に塩尻に到着。9時前には予約してあるホテルに車を置いて、中山道と松本街道の分岐点、下大門までの1kmをのんびりと歩く。

〈今回は気楽なビジネスホテルを予約〉
2泊3日で60kmを歩く

 今回の中山道は2泊3日で塩尻宿から上松宿までの約60kmを歩く予定だ。今回はいよいよ木曽路に入る。1日目の今日は、洗馬宿、本山宿を通り贄川宿までの約18.4km。このところあまり歩いていないし、3日連続で歩くには一抹の不安が残る。

2日目は、贄川宿から奈良井宿、鳥居峠を越えて薮原宿、さらに木曽義仲が挙兵した宮ノ越宿を目指す。この日は約20km。そして3日目は、宮ノ越宿から関所があった木曽福島宿を経て上松宿まで17kmを歩く計画を立てた。

〈下大門の交差点から歩き始める〉

〈大門神社〉

〈耳塚神社〉
耳塚神社


 大門神社を過ぎたところに、素焼のかわらけが奉納されている小さい祠があった。

説明板を読むと、この祠は「耳塚神社」といい、「耳の形に似た素焼の皿やお椀に穴を開けて奉納すると、耳の聞こえが良くなると評判を呼び、伊那地方からなど多方面からはなしを聞きつけて参拝した」のだそうだ。今も耳が遠くなった人が参拝するらしく、たくさんの素焼の皿やお椀が奉納されていた。

〈耳塚神社に奉納されたかわらけ〉
レタス畑

 右のいつまでも続く塀は、昭和電工の工場の塀だ。その昔、ちょっと昭和電工の仕事をしたことがあって、東京の本社にはお邪魔した事がある。

塀の左はレタス畑が続く。手前の畑は植え付けて間もないので何の野菜かわからなかったが、歩くに従ってだんだんと葉っぱが大きくなっていく。喜多さんと出した結論は、これはレタス畑で、収穫の時期をずらすために植え付け時期をずらして長く収穫できるようにした、ということだが正解だろうか。弥次さんは田舎育ちのくせに畑のことを何も知らないと喜多さんに非難されるが、山口県にはレタス畑などない。この先では、完全に玉になったレタスを夫婦で収穫していた。

〈昭和電工の長大な塀〉

〈植えつけて間もないレタス〉

〈もうすぐ収穫できそうなレタス〉

〈北側の平出一里塚〉
平出一里塚

 珍しく両側に残っている「平出一里塚」には見事な松の木が植わっていた。道の両側にそろって残っている一里塚は塩尻ではここだけになっているが、両側の一里塚の位置を考えると昔からずいぶんと広い道路だったのだろう。

このあたりは桔梗ヶ原と呼ばれ、ぶどう畑が延々と続く。

〈南側の平出一里塚〉

〈農作業をするおばあさんの向こうにはアルプスの山々が〉

〈平出遺跡〉

〈ぶどう畑が続く〉
平出遺跡

 平出遺跡の看板があったが、先を急ぐし横浜の家の近くにも三殿台遺跡があるので、似たようなものだろうと立ち寄らないことにする。縄文や弥生時代の人間は暮らしやすいところに住み着いたわけで、わざわざ湿地や洪水が起こりやすい土地には居を構えなかったことだろう。だからこのあたりは昔から住みやすい土地だったに違いない。

道路の標識が「日本橋から」ではなく、「名古屋まで」になった。この手前に、ぶどうを栽培しているハウスがあった。中では高下駄をはいたおばさんが作業をしていたが、なるほど時季より早く店頭に並ぶ葡萄はこうして栽培していたのかと、改めて感心する。

〈道路の表示は名古屋までを示す〉
 時はあたかも五月。鯉のぼりが勢いよく泳ぐ。

昔はあちこちで見られたはずの鯉のぼりであるが、東京や横浜ではこのような絵に描いたような鯉のぼりはなかなかお目にかかれない。

息子が小さい頃、「うちには鯉のぼりがないの?」と聞かれたことがあるが、こんな大きな鯉のぼりを泳がせるには相応の広さが必要なのだよ。

〈都会ではなかなかお目にかかれない〉
 洗馬宿の北の岐路(わかれじ)碑に残す北国往還善光寺道

中山道洗馬宿へ0.2kmの案内板があった。

〈すずめ踊りのある家〉
 
【第31次 洗馬宿 本陣1軒 脇本陣1軒 旅籠屋29軒 木曽義仲の馬を洗った故事から地名がというが・・・】

〈木曽海道六拾九次之内 洗馬 広重画〉
 洗馬宿に入った。

この広重の絵は、洗馬宿の西を流れる奈良井川の夕景であるが、東海道の「蒲原雪の景」や「庄野の驟雨」と同様、広重の最高傑作に挙げる人が多い。

気持のよい中山道を下ってゆく。いや、江戸時代では上ってゆくか。

〈洗馬宿に入った〉
肘懸松

 「洗馬の肘松日出塩の青木お江戸屏風の絵にござる」と歌われた赤松の銘木・・・と説明板にはある。

細川幽斉が「肘懸けてしばし憩える松陰にたもと涼しく通う河風」と詠んだと伝えられている。が、何代目かの今の松はなんてことない普通の松だった。

〈細川幽斉の肘懸松〉

〈肘懸松の先は右下の狭い道を下る〉

〈中山道 洗馬宿〉

〈信濃分去れの道標 左が善光寺への道〉
中山道と信濃善光寺街道の分去れ

 中山道は右に折れて肘松の坂(相生坂)を上り、桔梗ヶ原を経て塩尻宿へと向かう。江戸へ30宿59里余。左は北国脇往還の始まりで、松本を経て麻績から善光寺へ向かう。善光寺街道とも呼ばれる。善光寺へ17宿19里余。
ここにある常夜灯は安政4年
(1857)の建立で、洗馬宿を行き交う参詣の旅人はこの灯りを見て善光寺へ伊勢へ御嶽山へ、そして京、江戸へと分かれて行った。 

洗馬区

〈中山道と信濃善光寺街道の分去れ〉

〈道路の改修で移されたわかされの道標〉

〈あふたの清水へ立ち寄る〉
   

〈あふたの清水〉

〈由来が漢文で書かれている石碑〉

〈それを読みやすく木に写してある〉
あふたの清水

 「あふたの清水」という表示があったので入ってみる。
「あふた」とは「太田」のことで、「蝶々」を「てふてふ」と表記するようなものだ。

その昔、木曽義仲の軍勢と出会った今井兼平が、この清水で義仲の馬を洗って疲れを癒したと伝
えられ、「洗馬」の地名はこの伝説に由来するというが、平安時代にはすでに洗馬牧の名があり、
故事は伝説に過ぎないのだそうだ。

馬を洗ったとされる清水の木桶は平成21年1月25日改修とあったので、まだ木の色が新しい。

〈洗馬駅に電車が入ってきた〉
洗馬駅

 このあたりは中央本線といってもワンマン電車だ。駅には切符の自動販売機さえない。駅員などいるわけもない。
洗馬駅でトイレ休憩していたら、ちょうど洗馬駅に停車する各駅停車のワンマン電車が入線してきた。

〈中山道高札場跡碑〉

〈まっすぐ続く中山道〉
 中山道が、道路の改修工事でまっすぐになっている。江戸時代以前に造られた旧街道というものは、
地形に合わせ無理のない道を普請していったに違いないから、いい具合に道がカーブしているところが多い。

〈言成(いいなり)地蔵尊〉

〈雪だるまみたいなお地蔵さん〉
【第32次 本山宿 本陣1軒 脇本陣1軒 旅籠屋34軒 そば切り発祥の地として有名】
   

〈木曽海道六拾九次之内 本山 広重画〉
   

〈本山宿に入った〉

〈中山道本山宿〉
そば切り発祥の地

 本山宿の長谷屋が、世にいう「そば切り」の発祥の地と言われているらしい。それ以前は団子にして食べていた蕎麦を切って食べるようになったので「蕎麦切り」という言葉が生まれたのだそうだ。この本山宿の蕎麦屋さんのおかげで、うまい蕎麦を食べることができるのだ。

確かに弥次さんの小さい頃、田舎でも頂き物のそば粉を食べる機会があったが、熱湯を注いで練って砂糖とか醤油で食べていた記憶がある。それはそれでうまかったのだが。というわけで、プレハブのような建物のそば屋さん「本山そばの里」で蕎麦を食べることにする。もりそばを注文すると、いかにも手打ちという感じの細さの不揃いな蕎麦が出てきた。

〈そば切り発祥の里〉

〈斜交(はすかい)屋敷〉
 普通家を建てるときには、道に面がそろうように建てるものだが、この本山宿ではそれぞれの家がはすかいに建てられている。身を隠すにはよさそうな造りだが、現代では恰好の駐車場になっている。

木曽街道を歩いて残念に思うのは、山と谷が迫り駐車スペースが車庫という形で取れないのだろう、せっかくの伝統的な家の前に車が駐車している確率が非常に高いのだ。いい街並みの写真を撮ろうとしても必ず車が入ってしまう。ま、旅人のわがままであって、地元に住んでいる人からすれば余計なお世話というものだろう。

〈中山道本山宿碑〉

〈やはり車がじゃま〉
 中山道第2踏切を越えて、日出塩駅を過ぎると、いよいよ木曽路へ入ることになる。

国道19号線の下をくぐり抜けると、是より南木曽路碑1.1kmの道標があった。

〈名古屋〜松本を結ぶ特急の本数は多い〉

〈国道19号線の下をくぐる〉

〈木曽路へはあと1.1km〉
【是より南 木曽路】

〈ここから木曽路 是より南木曽路の碑〉
いよいよ木曽路

 ついに木曽路へ入った。

車で通過するだけだと、この感激はわからないだろう。「是より南木曽路碑」の右手に休憩所があったので、しばし寝転がって休憩する。道路の左手に「木曽漆器は組合直売所へ」という目立つ看板があるが、本当の中山道はこの看板の裏手を山中に上がって行くのだ。

休憩していたら、60代半ばのおじさん3人組がこの碑の前で写真を撮って追い越して行ったが、そのまま国道沿いに歩いて行ってしまった。事前によく勉強しておかないと、この道はわからないだろう。喜多さんの右下に小さく「中山道」の表示がある。

〈本当の木曽路はこの道を上がる〉

〈一人だと寂しい木曽路〉

〈旧道に残る馬頭観音〉

〈国道に合流するところにある石仏〉

〈古い鉄道のトンネル?〉

〈ぼたん桜が満開〉

〈旧中山道と間違えて登って行った山道〉
   

〈道標といかにも旧道らしい石碑もある〉

〈思い込みとは恐ろしいものでこれが本当の中山道と思った〉
カモシカに出会う

 贄川駅まで2.2kmの道標を過ぎた先の右手に石碑があったものだから、この山道が旧中山道に違い
ないと案内表示もないのに山道に入って行った。その先に小屋があり、豊富な水をポンプで流している。
空になったペットボトルに汲んで飲んでみると、うまいこと。市販の水の何倍もうまい水だった。

しかし、この道は中山道ではなかった。
諦めてもとの道に戻ろうとしたとき、前方でガサガサという物音が・・・。一瞬、熊かと身構える。

〈カモシカに出会った〉
 一瞬我が目を疑ったが、まぎれもなくカモシカだ。

喜多さんは、怖がって固まっている。「咬みつかない?」とか「襲ってこない?」とか言って怖がっているが、草食動物のカモシカが咬みつくわけないだろう。弥次さんは、そっとカメラを取り出して撮影に成功したのだった。

このカモシカはまだ子供のようで、人間が珍しかったのだろう。かなり近づくまで逃げようとしなかったが、さすがに手の触れるまで近づく前に山に去ってしまった。

〈すぐに山に去っていった〉
 道を間違えたおかげで、カモシカに出会うことができた。東海道では、土山宿で猿の群れに出会って、交通事故にあった猿を見る羽目になったが、熊でなくてカモシカで良かった。

『この若神子の一里塚は、明治43年の中央線の鉄道敷設時に1基が取り壊され、現存する1基も国道19号線の拡幅によって切り崩されて、現在は直径5m、高さ1mほどを残すのみとなっている。』と案内板にあった。

〈若神子一里塚〉

〈この道が正しい旧中山道だった〉
   

〈でもカモシカはいない〉

〈中年男性3人に追い越された〉

〈贄川駅に着いた〉

〈贄川駅舎〉
 やっと本日の終点、贄川駅に着いた。

本来なら次の奈良井宿まで足をのばして、奈良井宿の老舗旅館「越後屋」か民宿に泊まるのが正しいのだろうが、
今回は塩尻のビジネスホテルに電車で帰ることにする。駅で電車を待つ人は一人旅らしい若い女性と、地元の
老夫婦だけだったが、おじさんのほうに電車の乗り方を聞いてみた。何しろ駅員さんはいないし、切符の自動
販売機もない。

「切符は中で車掌さんから買うんですか?」
「ワンマンだから車掌さんはいないよ。乗る時に整理券を取るんだよ。だから乗り口は一か所だけだよ。」
「へ〜、そうなんですか。バスといっしょですね。」
「だけど高校生なんかが、降りる手前の駅の整理券を取ってズルをするもんだから問題になったことがあるんだよ。
ところで、どこから来たの?」
「今日は塩尻から歩いてきたんです。日本橋からずっと歩いてます。」すると、その奥さんが
「あ〜、多いね。いっぱいいるよ。」と言っていたから、結構歩いている人は多いのだろう。

駅には、不正乗車をけん制するポスターが貼ってあった。
高校生が期限切れの定期券を不正使用して、120万円の支払い請求されたケースがあるそうだ。
電車には正しく乗って、いつまでも中央本線が運行できるようにしないと困るのは君たちだよ。
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