〈十五日目〉 平成20年12月28日 日曜日 晴れ 風寒し 下諏訪宿〜塩尻宿
【第29次 下諏訪宿 本陣1軒 脇本陣1軒 旅籠40軒 中仙道で唯一温泉がわく宿 甲州道中の終点】

木曾海道 六十九次之内 下諏訪 広重画
下諏訪宿からスタート

 今年の年末年始は9連休だ。

冬の木曽路は寒さが厳しそうだし、どうせ歩くなら気持ちよく歩きたいと春になるまで旧中山道の旅は休むつもりでいたが、田舎に帰る予定もないから思い切って下諏訪からの続きを歩くことにした。

喜多さんと二人で、10時前には2か月前に和田峠を越えてたどり着いた下諏訪駅に到着し、塩尻宿を目指す。

〈下諏訪駅前には諏訪大社の御柱が〉
新鶴本店

 喜多さんが友達に新鶴本店の塩羊羹をお土産に買って行きたいというから、少し戻って諏訪大社脇にある老舗に向かう。確かにこの店の塩羊羹はおいしかった。駅前にある土産物屋さんにも塩羊羹は置いてあるが、よく見ると値段が全然違うから味も違うのだろう。まがい物とまでは言わないが、下諏訪の塩羊羹と言えばこの新鶴本店の塩羊羹のことらしい。この有名な塩羊羹にあやかって他の店も塩羊羹を売り出しているというところだろう。

この信州は海が遠く塩が貴重品であった。その信州で塩羊羹が生まれたのは塩が貴重品であったからこそであろう。早朝だというのに店の中には塩羊羹を買い求める人が列を作っていた。

〈塩羊羹の新鶴本店〉
諏訪大社

 もうすぐ正月だし諏訪大社に参拝していこうと思ったが、今日は中山道で4番目に高い塩尻峠を越えなければならない。

ちなみに1番目は前回越えた和田峠
(約1,600m)、2番目と3番目はその前に越えた碓氷峠と奈良井宿の先の鳥居峠(約1,200m)だ。今回歩く塩尻峠は約1,000mといったところだ。

心残りではあるが早々に中山道に復帰することにする

〈諏訪大社下社秋宮〉
本陣岩波家

 前回時間がなくて立ち寄れなかった本陣岩波家を見学させてもらおうと思ったが、こちらは残念ながら開いていなかった。

この下諏訪宿本陣は、京風の庭園と数寄屋造りの客殿が調和した中山道随一の名園と称されて名高いとガイドにはある。

当然のこと皇女和宮が下向の際には宿泊されたというが、その上段の間は近くの「かめやホテル」に移築されているという。

〈本陣 岩波家〉

〈下諏訪宿 甲州道中 中山道合流之地碑〉
   

〈かめやには和宮宿泊上段の間が保存されている〉

〈歴史民俗博物館〉
下諏訪宿

 下諏訪宿は、@諏訪神社の下社があった Aここから甲州街道と伊那街道が分岐していた B難所の和田峠と塩尻峠の中間にあった C温泉が出た などの理由で商人や旅人達で非常ににぎわっていたという。

広重の下諏訪宿では、風呂に入り手拭いを掛けた旅人6人が夕食をとっている。左奥の湯殿では客が据え風呂に浸っているが、この湯は温泉ではなく沸かした湯のようだ。温泉地下諏訪で宿屋まで温泉の湯が引かれるようになったのは明治に入ってからで、江戸時代の温泉に浸りたい旅人は問屋場のとなりにあった綿之湯
(わたのゆ)の共同浴場まで行ったのだという。

〈左中山道 右甲州街道道標〉
 年末なので歴史民俗資料館も開いていなかった。
世間ではあわただしいに違いないこの時期に旧街道歩きをするひま人など想定していなのだろう。

〈下諏訪宿 中山道)

〈中山道下諏訪宿〉
   

〈弓矢のお飾り〉

〈御柱のモニュメント〉
下諏訪温泉

 このあたりは温泉がたくさんある。
前回和田宿で同宿になった京都の人は下諏訪に着いてから温泉に入って来たと言っていた。ちょっと自慢そうだった。くやしい。

われわれ弥次喜多道中は、その時は諏訪宿に着くのが遅かったために温泉に入ることはできなかった。だから次回来た時には・・・とひそかに思っていたが、やはり塩尻峠を越えるのが遅くなるので断念した。

〈路地の奥に菅野温泉の看板が〉
 国道20号線は右に緩やかにカーブするが、旧中山道は左の細い道を行く。日陰には一昨日降ったと思われる雪が残る。滑らないように足元に気をつけながら旧道に入る。
〈左が旧中山道〉

〈魁塚〉
   

〈魁塚の由来〉

〈江戸末期には様々な人間が出てきた〉
魁塚

 間もなく左手に「魁塚」が見えてきた。

ここは赤報隊長相楽
(さがら)総三以下幹部八士その他の墓である。
慶応4年正月江戸城総攻撃のために出発した東山道総督軍先鋒嚮導の赤報隊は、租税半減の旗印をたてて
進んだが朝議一変その他によって賊視され明治3年同志によって墓がつくられた・・・とある。

幕末の混乱の中で偽官軍として罪人扱いされ処刑された相楽総三たちは、その後名誉回復され昭和御大典
には御贈位の恩典に浴したとある。
   

〈このあたりは中山道の道標が親切〉
おそろしく細い中山道

 小さな川を渡った先を左に折れ、すぐまた右に折れると狭い路地があるが、その道が旧中山道だ。この道を歩いた人のHPなどには「おそろしく細い中山道」とある。

地元の人が道案内を掲げてくれているので大いに助かる。この案内がなければとてもこの道が旧中山道などとは思えないだろう。

〈おそろしく細い中山道〉
 このあたりの庭木は雪の害を防ぐためか防寒のためか、わらの帽子をかぶせてもらっているのが多い。農家には見えない家が多いので、どこかの店で売っているのだろうか。

〈帽子をかぶせてもらっている〉
県宝 旧渡辺家住宅


 長野県宝 旧渡辺家住宅というのがあったので、少し路地を入ってみる。

この家は在郷武士の家で高島藩の散居武士だったそうだ。なんでもこの渡辺さんの家からは大臣が3人も出ているらしい。埼玉県本庄宿の畑さん一族もそうだったが、血筋というものはあるようだ。

〈長野県宝 旧渡辺家住宅〉

〈りっぱな庭木のある家が多い〉

〈松の剪定が大変そう〉
 右中仙道、左いなみち(伊那道)の道標があった。この道は塩の道であったという。

このあたりの集落は家も立派で、何より庭木が立派な家が多い。どの家も庭木の手入れにかなりの維持費を使っているようだ。通りがかりの家がちょうど庭の松の木の剪定をしていたが、植木屋さんが3人がかりで松の木にとりかかっていた

〈右中仙道 左いなみち〉

〈りっぱな庭木の多い中山道をゆく〉
   

〈街道にはゴミひとつ落ちていない〉
 
〈東掘一里塚跡〉
雀おどり


 この辺りはりっぱな家が多いが、中でも独特の形をした屋根飾りが街道に向けて誇示するように立っている家がある。これは「雀おどり」というのだそうだ。

確かに雀が足を休めるのにかっこうな造りに見えるが、雀のためというよりも裕福な家の象徴だったのだろう。

〈すずめ踊りのある家〉
〈穀留番所碑〉
〈今井茶屋本陣〉
茶屋本陣 今井家

 このあたりは今井さん一族が取り仕切っていたようで、穀留番所というのがあったが名主の今井さんが番所役を務めたそうだ。

また、茶屋本陣も今井さんで、その家のりっぱなことといったら、敷地の広さも合わせてびっくりするほどだ。やはり屋根には「雀おどり」が見える。

富士山が遠望でき、富士見茶屋の名があったという

〈今井さんが今でも住んでいる〉
 その先を行くと長野自動車道の岡谷ICで旧中山道が迂回せざるを得ないところがあり、新しい中山道の碑があった。

「右しもすは 左しほじり峠」 とある

これから塩尻峠にさしかかるのだ。
 上り坂をのぼっていくとだんだんと景色が開けてきた。諏訪湖と富士山がよく見える。

横浜から見える富士山は裾野の方までよく見えるが、塩尻から見る富士山は東京から見える富士山と一緒で、手前の山の向こうに雪をかぶった上部3分の1ほどが見える。

〈諏訪湖と富士山が見えてきた〉

〈石船観音〉
   

〈松葉づえや義足が奉納してある〉

〈この頃の熊は冬眠しないのがいるらしい〉
石船観音

 塩尻峠も熊がでるらしい。喜多さんは持参の鈴を取り出して音がよく鳴るように服に取り付けた。

石船観音というのがあったので石段を上がってみる。そうするとわらじがたくさん奉納してあった。
わらじが奉納してあるのはよく見るが、右に回ってみると松葉つえや義足なども奉納してある。
足を怪我した人が快癒して奉納しに来たのだろうか。この観音様は足腰にきくのだそうだ。
弥次喜多コンビも京都まで無事着けるよう、足腰の壮健を祈念して手を合わせる。
旧中山道の大石

 旧中山道の大石というのがあった。説明板を読んでみると、

この巨石は昔から「大石」と呼ばれている。「木曽路名所図会」にも大石、塩尻峠東坂東側にあり高さ二丈(約6m)ばかり、横幅二間余(約3.6m)と記されている。伝承によれば、昔この大石にはよく盗人が隠れていて、旅人を襲ったといわれている。ある時のこと、この大石の近くで旅人が追いはぎに殺され大石のたもとに埋められた。雨の降る夜に下の村から峠を見ると、大石の所で青い火がチロチロと燃えていたという。またこの辺は昔よくムジナが出て夜歩きの旅人を驚かしそのすきに旅人の持っている提灯のローソクを奪ったという。ムジナはローソクの油が大好物という。』

〈旧中山道の大石〉
 さぞ寒いだろうとかなり着込んで下諏訪にやってきたのだが、塩尻峠への旧中山道はかなりの急坂で、コートもセーターも脱いでしまいたいぐらいだ。

江戸時代、このあたりを旅する旅人は、さぞ心細い思いで峠に向かったに違いない。こんなところで追いはぎに襲われると、腕に自信がある人はともかく、「命ばかりはお助け〜」と有り金を渡して命からがら逃げ出すしかなかっただろう。

このあたりの中山道は日当たりも良く雪が降ったなど微塵も感じさせないが、この先ではまさに冬の塩尻峠を実感できる道が続く。

〈塩尻峠への急な坂道になる〉

〈少し上るといきなり雪道になった〉
塩尻峠

 今年の冬は暖冬といっていいくらい暖かい日が続いたが、暮れになって各地で大雪が降った。おとといは水上温泉では70cm以上積もったらしい。やはり冬は雪の地方はそれなりに雪も降ってくれないとスキー場をはじめいろいろな産業がなりたたない。

しかし旧街道歩きの弥次喜多コンビとしては、雪の山道を歩くのは一抹の不安を感じる。そんなつもりで来ているわけではないから、雪に備えた装備をしているわけでもない。そんな不安を感じながら登っていくと突然視界が開け塩尻峠に到着した。さっそく展望台に登ってみる。

〈峠の頂上までもう少し〉

〈峠に近づくと急に寒くなった〉
   

〈明治天皇塩尻峠御野点所碑〉

〈ここにも熊出没注意〉
【第30次 塩尻宿 本陣1軒 脇本陣1軒 旅籠75件 太平洋産と日本海産の塩が出会うところから塩尻に】

〈木曾街道 塩尻峠 諏訪之湖水眺望 英泉画〉

〈塩尻峠展望台からの諏訪湖と富士山〉
諏訪湖

 英泉の絵のように下諏訪を出て少し塩尻峠に行く道をのぼると、諏訪湖越しに左手の八ヶ岳連峰と右手の赤石山脈との間に富士山を望むことができた。この諏訪湖は水深が深いところでも6mしかなく、冬は凍結し「御神渡
(おみわたり)」と呼ばれる現象が起きることがあるという。

湖面が凍結したあと寒い日が4〜5日も続くと、冷却した氷の体積がさらに膨張し、大音響を立てて幅1mあまりの突堤が湖面を横切って盛り上がるのだという。これは諏訪明神が下諏訪に鎮座する女神のもとに通われるために起きるのだと考えられ、土地の人はこれを「御神渡」と称してその年の農作物の豊凶を占った。

〈左手には八ヶ岳連峰が見える〉
塩の終点

 塩尻という地名は、日本海側から運ばれる裏塩と太平洋側から運ばれる表塩がこの地で出会うことから塩の尻(終点)としてできたといわれる。太平洋と日本海の分水嶺でもある。交通の要衝で、信州の中山道最大の旅籠屋の数があったという。

峠の展望台の前で少し道に迷った。塩尻に行く道がはっきりしない。道が四筋に分かれているがこんな雪道で迷うわけにはいかない。「塩尻峠で街道歩きの夫婦凍死体で発見」という新聞の見出しが一瞬頭をよぎる。道に迷ったら原点に戻るという鉄則で、峠にたどり着いた道まで戻ったらちゃんと「旧中山道」の道標があった。これからは下り道になる。

〈塩尻峠から塩尻宿へ〉

〈雪道の下りは結構大変〉

〈夜通道〉
 雪道を下っていくと、お地蔵さんが2体並んでいたが、説明を読んでみると「夜通道(よとうみち)」とある。
何事かと思って読むと、
「いつの頃か片丘辺のある美しい娘が岡谷の男と親しい仲になり、男と会うために
毎夜この道を通ったという。」
という解説があった。?????
こんなどこにでもありそうないわれで物々しく説明板を立ててよいのだろうか?と喜多さんと真面目に考える。
東山一里塚

 東山一里塚があったので解説を読んでみる。

『元和2年(1616)に塩尻峠が開通したことから、中山道は牛首峠経由(桜沢口〜牛首峠〜小野〜三沢峠〜諏訪)から塩尻峠経由(本山〜洗馬〜塩尻〜下諏訪)に変更され、この一里塚もその頃つくられたものと推定される。市内には東山、塩尻町、平出、牧野、日出塩の五か所に築かれたが、現在はここと平出の一里塚が形を残しているだけである。』とあるが、一つも残っていない町が多い中、立派なものである、

〈東山一里塚〉

〈さらに雪道を歩く〉
   

〈雀おどりのある豪邸〉

〈地下道をくぐる〉

〈やっと雪のない中山道に〉
   

〈長野自動車道を越える〉

〈柿沢集落に入る〉
首塚

 
今をさかのぼること434年前、歴史上戦国時代といわれる天文17年7月19日甲斐の武田信玄軍と松本林城主小笠原長時軍とが永井坂において交戦し数時間に及ぶ激戦の末、戦いは小笠原軍の破れるところとなり多くの戦死者を残して退却をした。
 武田軍は家臣の戦功を賞するため首実検を行った後、戦死者の遺体を放置したまま引き揚げて行ったので、柿沢の村人はこれを哀れに思いここの埋葬したのがこれら首塚、胴塚である。・・
・とある。

その後、昭和10年まで忘れられていたらしいが、地元の篤志家が寄付を集め小笠原長生の揮ごうを得て碑を建立したとある。

〈首塚〉

〈雀おどりのある家〉

〈道祖神と雀おどりのある家〉
   

〈雀おどりが美しい〉
 
〈国重要文化財 小野家住宅〉
   

〈塩尻宿には江戸時代が色濃く残る〉

〈旧旅籠いてふ屋〉

〈塩尻宿 中山道碑〉

〈本陣跡碑〉

〈煙出し屋根のある家〉

〈やはり睦まじい道祖神が多い〉

〈国重要文化財 堀内家住宅〉
堀内家住宅

 国の重要文化財に指定されている堀内家住宅は、是非家の中も見学したいと思ったのだが10日前に
予約しないと見学できないらしい。妻入りの本棟造りで、棟端飾りは「カラスオドシ」と呼ばれる・・・
と書いてあるガイドがあったが、「すずめ踊り」と「カラスオドシ」の違いは何なのだろうか。

このあと塩尻駅に着いて、寒いので熱燗セットと天ぷらそばで暖まる。
思いがけず真冬に10数kmの距離を稼ぐことができたが、やはりこの先は春の声を聞いてから歩きたい。
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