〈十日目〉 平成20年 10月12日 日曜日 晴れ 坂本宿〜軽井沢宿
碓氷峠へ

 今日は、いよいよ中山道屈指の難所「碓氷峠」越えの日だ。 

碓氷〈ウスヒ〉はこの地方の天候の表現で、午後には霧が出てあまり日がささない「薄日」のこと・・・とガイドには紹介してある。

 今日は、中山道を歩き始めて初めて車で横浜からやってきた。喜多さん参加で本日の宿を会社の軽井沢寮にとったのと、新幹線に比べて安上がりだからだ。
会社の寮は、実は前日の土曜日に空きを確認したら満室だという。だから仕方なく3連休の中日の日曜日に予約したのだ。
でも怪我の功名で大正解。
昨日は雨だったが、本日は快晴だからだ。
朝6時前には横浜の家を出たが、やはり連休で渋滞し、軽井沢駅前に着いたのは予定より遅れ9時45分だった。
横川駅行きのバスに乗るために駐車場から二人で必死に走った。

〈横川駅前の中山道〉
碓井関所跡

 何しろ横川駅行きのバスは1時間に1本しかないのだ。これを逃すと1時間無駄に過ごさなければならない。
事前にHPで調べたら軽井沢駅発9:50とあったので、ぎりぎりセーフかとばかりにバスに飛び込んだ。
運転手さんにもう出ますよね、と確認すると出発は10分後だという・・・・・。
喜多さんは久しぶりに走ったのでバスのシートにうずくまって顔を上げる元気もない。無言の非難がビシビシと突き刺さる。

というようなことはあったが、無事横川駅前に到着。
前回、釜飯をお土産に買って帰ったおぎのやの前から続きを歩き始める。

歩き始めてすぐに碓氷関所跡が見えてきた。
江戸時代「入鉄砲」と「出女」を防ぐために、東海道の箱根・新居、中山道の碓氷・木曾福島は四大関所として江戸防衛の重要拠点に位置づけられていたという。

〈碓氷関所跡〉
おじぎ石

 この関所の門の前に「おじぎ石」というのがあった。

説明を読んでみると、「通行人はこの石に手をついて手形を差し出し通行の許可を受けた」
松井田町教育委員会とある。

写真を撮るため、喜多さんに「ちょっと手をついてみて」と頼んだが「やなこった」と断られた。
江戸の文化は素晴らしいのもがあるが、一般の町人はこのようにとんでもなく武士階級から見下されていたのだと改めて思う。
どうして、通行するだけで手をついて頭を下げなければならないのだ。
こんなことをしていたから、江戸幕府はやがて滅び行く運命にあったのだ。

〈碓氷関所おじぎ石〉
 碓氷の関所は、醍醐天皇の昌泰2年(899)に群盗を取り締まるために、碓氷坂に設けられたのが始まりで、
この地に関所が移ったのは元和年間(1615〜1623)といわれ、明治2年(1869)廃止されるまで中山道の要所となった。
門柱と門扉は当時使用されていたものだという。
  
〈川久保薬師坂〉                      〈坂の途中の湧き水〉                    〈坂本宿への道標〉
【第17次 坂本宿 本陣2軒 脇本陣2軒 旅籠40軒 幕命による計画的宿として誕生】

〈木曾街道六拾九次之内 坂本 英泉画〉
 坂本宿は江戸時代に幕命で計画的に作られた宿場で、東海道平塚宿の高麗山のように丸い「刎石(はねいし)山」に向かってまっすぐな広い道が伸びている。
短冊形に整然と地割をした上で、住民を呼び寄せた。

また、箱根の前後の小田原宿や三島宿のように、関所や碓氷峠を控え旅装を解く人が多かったという。

〈坂本宿と刎石山〉
  
〈坂本宿下木戸跡〉                       〈中澤屋とあった〉                 〈本陣跡 坂本小学校発祥の地〉
白ひげ神社由緒 −白ひげの老人日本武尊を救う−

十二代景行天皇の命により日本武尊は、東国を平定し帰途、武蔵・上野を経てこの地
碓氷嶺東麗川久保坂にさしかかった。
そのとき山の神は、白鹿に化け尊の進路を妨げた。
尊は蛭を投げて征せんとすると濃霧たちまち起こり進退きわまった。
すると剣を持った白ひげの老人が現れ白鹿を撃退したので尊は濃霧から脱することができた。
尊は白ひげの老人の霊験を見たのは天孫降臨を先導した猿田彦命の加護と思い石祠を建て祀った。
時に景行天皇40年(240)白ひげの老人にちなみ白鬚神社の創立となった。


50m左に入ったところにこの白ひげ神社はあるらしいのだが、あまりゆっくりしていられないので、
説明板を読んだだけで通り過ぎる。

しかし、東海道でたびたび登場した日本武尊は中山道にもやはり登場する。
しかも東海道と同じように襲われてばかりいる。
よほど東国平定で恨みをかったのだろう。
  
〈脇本陣永井〉                                                          〈旅籠 かぎや〉
かぎや

 
「かぎや」は坂本宿時代のおもかげを残す代表的旅籠建物である。
伝承によればおよそ370年前、高崎藩納戸役鍵番をしていた当武井家の先祖が坂本に移住し旅籠を営むにあたり

「かぎや」とつけたといわれる・・・・。と案内板にある。

その先の案内板に、小林一茶の定宿「たかさごや」というのがあった。

小林一茶

信濃国柏原が生んだ俳人小林一茶(1763〜1827)は、郷土と江戸を往来するとき中山道を利用すると
「たかさごや」を定宿としていた。
寛政・文政年間、坂本宿では俳諧・短歌が隆盛し、旅籠・商人の旦那衆はもとより馬子、飯盛女にいたるまで
指を折って俳句に熱中したという。
それで、ひとたび一茶が「たかさごや」に草履を脱いだと聞くや近郷近在の同好者までかけつけ自作に
批評をあおいだり、俳諧談義に華咲かせ・・・云々。
碓氷峠の刎石山の頂に「覗き」と呼ばれるところがあって、坂本宿を一望できる。
一茶はここで次の句を残している。

坂本や 袂の下は 夕ひばり
   

〈坂本宿に入った〉
   
 群馬県は最初から最後まで雰囲気のある町が多かった。
家族で行った草津や伊香保もよかったし、中山道を歩いて改めて群馬県の良さを知った。

これで碓氷峠を越えたらいよいよ群馬県ともお別れ、次の長野県に入るのだ。
    〈芭蕉句碑 ひとつ脱てうしろに負いぬ衣かえ〉       〈横川から先の旧信越本線が歩けるコースに〉                    〈白秋 碓氷の春の碑〉
 箱根越えと違って、この碓氷峠越えには若干の不安があった。
果たして道がちゃんと続いているのだろうか。
途中で迷ったりしないだろうか。熊が出たりしないだろうか。

おまけにせっかく用意した地図をあせって車に置いて来てしまった。
しかし我々の前に、いかにも山歩きのベテランぽいおじさんが歩いていたので、意を強くして山中に分け入る。

〈旧中山道入り口〉
 横川駅の標高はおよそ400m、山頂の熊野神社の標高およそ1,200m。実に800mの高さをこれから歩いて上るのだ。

箱根と同じように、刎石坂とか座頭ころがしとか、いかにもという地名が残っている。

〈碓氷峠案内板〉
  
〈これが本当の中山道〉                  〈安政遠足のコースでもある〉                  〈枯木の杖を調達〉
  
〈杉ばかり 花粉の時期でなくてよかった〉                  〈刎石坂〉                               〈柱状節理〉
柱状節理

 このあたりの石は柱状節理と言って、岩が板か柱のように割れる。だからそのまま石碑かお地蔵さんに彫れそうだ。

その柱状に割れた石があちこちに積んである。

〈刎石坂の柱状に割れた石〉
   

〈覗きから見た坂本宿〉
   
のぞきでお弁当

 小林一
茶が一句詠んだという「覗き」に着いた。
山の中腹に見晴らしが良いように木が切ってあって、坂本宿が良く見える。
江戸時代から「覗き」というらしい。

歩いてきたまっすぐの道が正面に見える。
歩くスピードでは1時間に3〜4kmしか進まないが、着実に進んでいることがわかる。

ここで弥次喜多夫婦は、横川駅で買ったおぎのやの駅弁を広げることにする。
さすがに「峠の釜めし」は重いので、弥次さんは「とりもも弁当」喜多さんは「玄米弁当」を買って来た。
山で食べる弁当はなぜこんなにうまいのだろう。
喜多さんは、「玄米弁当」をえらく気に入っていた。
  
〈弘法の井戸〉                     〈刎石茶屋〉                         〈碓氷坂の関所跡〉
  
〈もう少しすると紅葉が美しいだろう〉                                                     〈掘り切り〉
 道々に親切に案内板が立ててある。

〈弘法の井戸〉弘法大師が山中で水が出ないのを哀れみ井戸を掘ったところ水が出たと言う。
今でもりっぱに水があり、ひしゃくも置いてあったがさすがに飲む気になれなかった。

〈刎石(はねいし)茶屋跡〉ここには4件の茶屋があったという。今も石垣や墓が残っている。
江戸時代には多くの旅人でにぎわったことだろう。

〈碓氷峠の関所跡〉昌泰2年(899)群盗を取り締まるためにこの場所に関所を設けたといわれる。

〈掘り切り〉天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めで、北陸・信州軍を松井田城主大道寺駿河守が
防戦しようとした場所で、道は狭く両側が掘り切られている。

途中、何組かの夫婦と何人かの一人で歩いている人に出会ったが、女性は鈴を鳴らしている人が多かった。
熊よけの鈴であるが、熊もいきなり人に出会うからびっくりして襲ってくるのだろう。
北海道出身の会社の女性によると、北海道では歌を歌いながら山菜取りをするのだと言う。
幸いなことに、熊に出会うことはなかった。

〈2008年 12月6日の新聞〉
  
〈南向馬頭観世音〉              〈北向馬頭観世音〉                 〈一里塚〉
  
〈座頭ころがし〉                                                                  〈山中茶屋〉
〈南向馬頭観世音〉 昔、この付近は山賊が出たところと言われ、この切り通しを出た途端に南側が絶壁となる。
寛政3年12月19日 坂本宿 施主七之助

〈北向馬頭観世音〉馬頭観世音のあるところは危険な場所である。
文化15年4月吉日 信州善光寺 施主 内山庄左衛門

〈一里塚〉座頭ころがしの坂を下ったところに慶長以前の旧道(東山道)がある。ここから昔は登っていった。
その途中に小山を切り開き「一里塚」がつくられている。

〈座頭ころがし(釜場)(かんば)急な坂道となり、岩や小石がごろごろしている。
それから赤土となり、湿っているのですべりやすいところである。

〈山中茶屋〉山中茶屋は峠のまんなかにある茶屋で、慶安年間(1648〜)に峠町の人が川水をくみ上げるところに
茶屋を開いた。寛文2年(1662)には13軒もの立場茶屋ができ、寺もあって茶屋本陣には上段の間が2か所あった。
明治の頃小学校もできたが、現在は屋敷跡、墓の石塔、畑跡が残っている。

途中、我々より一回り年上の夫婦が追い越していった。
二人とも半袖で元気な夫婦だ。
説明板のところで一緒になったので少し話をすると、やはり中山道を歩いているようで、
諏訪に向かわずに善光寺に行こうかと考えているらしい。
定年後、時間が余っているのだと言う。
うらやましい。早くそんな身分になりたい。
 〈一つ家跡〉という説明板には、「ここには老婆がいて旅人を苦しめたと言われている・・・」と書かれている。

老婆はどのように旅人を苦しめたのだろうね、と喜多さんと盛り上がる。
よほどの意地悪ばあさんだったのだろう。

その先の〈陣場が原〉の説明板には、太平記に新田方と足利方のうすい峠の合戦が記され、戦国時代武田方と上杉方のうすい峠合戦記がある・・・とある。

東海道のさった峠もそうであったが、峠は国境だから合戦の舞台になることが多かったのだろう。

〈もうすぐ碓氷峠〉
  
〈一つ家跡〉                〈陣場が原〉                〈熊野神社まで1.2km〉
熊野神社と熊野皇大神社

 山道からいきなり観光地に出たようだ。

群馬県側の熊野神社と、長野県側の熊野皇大神社が2社並んでいる。反対側には名物力餅を食べさせる茶屋がいくつもある。

ずっと山道を歩いて少し疲れたので、休憩することにする。
入った茶店では、奥さんが申し訳なさそうに「力餅は売り切れたんですけど」と言われる。この峠は力餅が名物なのだ。

晩御飯が食べられなくなるので、飲み物だけのつもりでいたから、二人とも甘酒を注文して一休み。

休憩のあと、1時間ほど歩いて軽井沢駅を目指す。

〈長野県側 熊野皇大神社〉
【第18次 軽井沢宿 本陣1軒 脇本陣4軒 旅籠21軒 明治以降は別荘地に変貌】
   

〈木曾街道六拾九次之内 軽井沢 広重画〉
   
  
〈ショー記念碑〉                〈旧軽銀座〉                     〈旧軽井沢ロータリー〉
 碓氷峠の旧中山道がうそのような軽井沢の賑わいだ。

甘酒を飲んで休んだ茶屋からなだらかな下り道を下りていくと、右手にショーの記念碑と別荘がある。
ショーは、軽井沢の魅力を発見し紹介し、軽井沢に一番先に別荘を建てた人なのだそうだ。
同じような風景なのに、欧米人が家を建てるとどうしてもシャレた雰囲気になってしまうところがくやしい。

旧軽井沢銀座は、観光客でごった返している。
君たち!こんなところで安易に遊んでいないで、碓氷峠を越えてみなさい!!
と、胸の奥でつぶやくも誰も賛同してくれないだろう。

旧軽井沢ロータリーから、さらに1km歩き軽井沢駅に到着。
朝入れた駐車場で車に乗り込み、10分足らずの会社の軽井沢寮に向かう。

無事に碓氷峠を越えられて良かった。
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