〈七日目〉 平成22年3月20日 土曜日 晴れ 風強し 吉野宿〜上野原宿〜鳥沢宿
【吉野宿続き】
 本来今日のこの時間は、岐阜県恵那駅から中山道を次の大湫(おおくて)宿に向けて歩いているところだった。

しかし、水曜日あたりの週間予報では、岐阜県南部は土曜日が降水確率50%、日曜日が降水確率70%で、しかも荒れる模様と報じられていた。

急に降りだした小雨程度なら仕方ないのだが、豪雨や強風の時に歩くのは、せっかくの楽しい街道歩きをつまらなくする。

そんなわけで、新幹線の指定席も、細久手宿の大黒屋も1週間順延して予約を取り直したのだった。

〈山の中腹にラブレターを持つ手が・・・〉
 でも、せっかく歩く気満々になっているのに、どこも歩かないのはつまらないから、先週歩いた甲州道中吉野宿の続きを歩くことにした。

磯子駅に車を置き、JR根岸線、東神奈川から八王子まで横浜線、八王子からは中央本線に乗り換えて、1週間前にたどり着いた藤野駅に降り立つ。時刻は10時を過ぎている。

藤野駅の目の前の山腹に手紙を持つ手のモニュメントが見える。
前にテレビの旅番組でやっていたが、これはパイプを組んで白いシートを張ったアートなのだ。こんなものは遠くで見るに限る。

駅を出たらすぐに東京から70kmの道標がある。

〈東京から70km〉
  
〈中央自動車道の下を歩く〉                〈歩道橋をわたれば国道20号線と合流〉            〈国道沿いをしばらく歩く〉
 今日も先週と同様、5月上旬の陽気だという予報が出ている。

しかし、朝は寒いのでどうしてもある程度の防寒着は着てこなくては不安だ。歩き始めて間もないこのころはちょうど良かった上着もすぐに暑くて邪魔になってくる。

結果的に今回中山道をあきらめたことは正解だった。
20日、21日とも全国的に強風が吹き荒れ、静岡県御殿場市では野焼きの際強風で火にまかれ3人死亡、九州では落下した駐車場の屋根に首を直撃され女性が死亡している。
関東圏でも、電車や飛行機の運休があった。

21日には中国からの黄砂で視界が遮られ、歩いてもつまらなかったことだろう。

〈増珠寺には力士追手風喜太郎の案内が〉
 国道20号線の右手に古そうな小学校の入口の碑があった。

小学校に通っていた頃、友人のYちゃんと「2000年になるときは44歳ど〜。どうしとるかの。」と話したことをよく覚えている。

12歳の少年に、44歳になった自分を想像しろというほうが無理というものだろう。
我々田舎の少年は皆ボ〜ッとして生きていた。
何になりたいという野心もなく、いつまでも田舎の岩国で暮らすのだろうと思っていた。

それが、54歳のおじさんになり、こうして関東の街道を歩いているのだから自分でもびっくりだ。

〈神奈川懸津久井郡 小淵小學校入口の碑〉

〈甲府まで64km、大月まで23km、上野原まで3km〉

〈車の荷台にウルトラマンが〉
 
〈梅が満開の古道を歩く〉
 名倉入口の信号を左に下りる道が旧甲州道中だ。

向かいからは白い犬を連れた人が来てすれ違う。
喜多さんいわく、ずいぶんといじけた犬で、耳も尻尾もだらんと垂れて精彩がない。

こっぴどく怒られて、いじけているのだろうか。

〈国道20号線を左に〉
  
〈坂道を下りて橋を渡ると山梨県にはいる〉
 この橋は境沢橋。
神奈川県と山梨県の境となる相模川上流にかかる小さな橋だ。

その先の大きな橋の上では弥次さんより一回り年配の男性が2〜3人釣りをしていた。
ちょうど、獲物を持って帰ろうとしていた人に出会ったので、何が釣れたのか聞いてみた。

割と大きなハヤとニゴイだそうで、「猫の餌だ〜」と言っていた。
 旧甲州道中は、この大きな境川橋を渡らずに、Uターンするように坂を上って行くのだが、目の前に広がる相模川は緑の色が濃く、お世辞にも清流とは言い難い。
この水は相模湖に蓄えられ、神奈川県や東京都の飲料水にもなっている。

水を汚さないように気をつけたいものだ。

〈緑の濃い相模川〉

〈諏訪関跡〉

〈諏訪番所跡〉
 坂を登る途中の右手に諏訪関跡の碑があった。

この関所も通行取り締まりや手形改めを行っていたわけだが、説明板に面白いことが書いてあった。

明治2年  制度廃止となる
明治3年  山内国太郎捕亡方心得となり、時局不穏に付き番所従前の通りと通告
明治4年  この年番所廃止となる
       役宅は山内国太郎所有となる
明治13年 明治天皇巡幸の折御小休 お召し替え所となる
明治17年 渋沢栄一氏の別荘となり飛鳥山へ、その後小泉策太郎氏所有となり以後不明 


山内国太郎さんは、関所の制度が廃止されたあとも、「世の中物騒だぜ」と勝手に通告し、
以前のまま番所を運営していたようだ。
しかも、廃止となった後はちゃっかり自分の物にしちゃったわけで、なんと勝手なおじさんではないか。

明治17年には、渋沢栄一の別荘として飛鳥山へ移したらしい。
その後所有した「小泉策太郎」という人は、明治から大正の大物政治家で、伝記作家としても有名。
八男に東宝映画で活躍した「小泉博」がいる。・・・とは、ウィキペディアの受け売りだ。
 上野原自動車教習所では、3台しか教習中ではなかったが、路上教習の車にはたくさん出会った。

弥次さんが自動車免許をとったのは、今から35年も前のことであるが、自動車学校には行かずに遠い親戚がやっていた「室の木自動車教習所」に通って、試験は山口の県警で受けた。

自動車学校でとった友人が8〜9万円かかったと言っていたが、確か4万円くらいで済んだと思う。

基本的に車の運転が好きな弥次さんは、ほとんど途切れなく車には乗り続けている。

〈ただいま教習中〉
以下は弥次さんの車遍歴。

@19歳、廃車寸前のスカイラインGTをアルバイト代11万円で購入
A21歳 中古のトヨタカリーナST 57万円 父が買ってくれた。
B24歳 55万円で下取りするというから新車のカリーナSTに買い替え
  27歳 都立大学にマンションを買ったため駐車場がなく、泣く泣く手放す
C31歳 横浜の一戸建てに買い替えた際、サニースーパーサルーンを購入
D35歳 井上陽水が「お元気ですか〜」と言っていたセフィーロに買い替え
E39歳 子どもとキャンプに行きたくてエスティマエミーナに買い替え
  40歳 新車を買って4か月半でゴルフに
行く途中大事故、廃車に
F40歳 1.5BOXの脆弱さを思い知りやはりドイツの車だとオペルベクトラに
G49歳 めちゃくちゃ故障が多かったオペルに見切りをつけトヨタブレビスに

こうして改めて振り返ると、若いころは結構短期間で買い替えていたものだ。いまは、動かなくなるまで乗ってあげようと思っている。

〈上野原自動車教習所〉
 それにしても、今の若いもんは車に興味を持たなくなった。
うちのこども二人も免許をとったが、自分の家の車の名前も知ろうとしない。

これでは、日本で車が売れないはずだ。
弥次さんが学生の頃は、トヨタセリカとか、日産スカイラインとかは憧れだった。学生だけでなく、サラリーマンも「いつかはクラウン」と思って働いていた。

大それたベンツとかBMWとか、だれも買おうとは思わなかったはずだ。少し手を伸ばせば届きそうな国産車に憧れをもっていた時代がついこの間まであったのだ。

今の車はあこがれの対象ではなく、ひたすら実用品となってしまった。

〈このあたりは水が豊か〉

水難交通守護


日蓮大聖人伊豆御法難の危難を御救い申した船守弥三郎殿
伊東川奈船守山連慶寺より分骨の地

とあった。

〈上原山 船守寺〉

〈二十三夜碑〉

〈諏訪神社には杉の大木が5本並んでいた〉

〈雰囲気のある甲州道中をゆく〉

〈あいさつをかわす思いやりの道 旧甲州街道〉

〈その隣には 少子化を考えよう〉
 あいさつをかわすおもいやりの道

 旧甲州街道
 

       昔をしのぶ思い出の道

             
    施工 昭神建石 
                       波多野保男建立


明らかに、個人で建てたという感じの石碑があった。
その隣には、「少子化を考えよう 少子化は国力の低下につながる」という主張が。

〈甲州道中がうまい具合にくねる〉
  この一里塚は、五街道の一つ甲州街道に築かれた塚の一つです。日本橋から十八里(70.62km)17番目のものです。

という説明板があるが、一里塚が神社になっているケースは珍しいのではないだろうか。

〈一里塚 塚場〉
【上野原宿】
酒まんじゅう

 前方が賑やかになってきた。上野原の町に入ってきたのだ。

この上野原名物は「酒まんじゅう」なのだそうだ。
町に入った早々に「上野原名物 酒まんじゅう 味一番」という手書きの広告が貼ってあったので、早速店に入ってみる。

風月堂という和菓子屋さんで、ケースには酒まんじゅうのほかに、味噌まんじゅうなど何種類ものまんじゅうがあったが、やはり名物の酒まんじゅうを買うことにする。

その先のベンチに座って早速いただいてみると、懐かしい味がした。これは岩国の方では、葬式や法事には欠かせない今はなき春田製パンのまんじゅうにそっくりの味だった。

〈上野原の町に入る〉
  
〈上野原名物 酒まんじゅうの風月堂〉
大けやき


 その先のコンビニでお茶を買った際、大きなケヤキがあると聞いたんですがと聞いてみると、丁寧に地図を書いて教えてくれた。

町の商店ののぼりにも「大けやきシール」とあるが、場所を示す案内はどこにもない。

教えられた信号を右折して2〜3分歩くと小学校の校庭に、その大けやきはあった。

〈上野原商店街では大けやきシールを配っているらしい〉
 
〈推定樹齢800年の大けやき 右下のトラックとその大きさを比較していただきたい〉
 校庭にお邪魔して大けやきを見ていると、ちょうど木の手入れをしている方がいたので、いろいろ聞いてみた。

よく樹齢を聞かれるが、中がほとんどなくなっている老人の木なのではっきりとは分からない。800年くらいは経っているだろうとのことであった。

幹のほとんどは朽ちていて、木で周りを覆い、入口が作ってあった。

その後は、ちょうどお昼時でもあるし、隣の月見が池のベンチに腰掛け、八王子駅で買ってきた駅弁を広げてお昼ごはん。

〈月見が池〉

〈本町歩道橋の下を左の道へ〉

〈木食白道上人加持水跡〉
 道なりの道は緩やかに左に、右へは登り道、両方とも旧甲州道中ではない。正しい道は真ん中を下る細い道なのだそうだ。

喜多さんが進もうとしている道がそれだ。

〈道は3つに分かれるが〉
 風情のある甲州道中はゆるやかに下ってゆく。

道の脇にはきれいな水が流れ、スイセンが可憐に咲いている。

〈ひなびた甲州道中をゆく〉

〈すいせんが咲く道〉

〈鶴川入口歩道橋を野田尻方面へ〉


〈左の赤い橋は中央自動車道〉
【鶴川宿】
 
〈これから鶴川宿へ〉

〈鶴川大橋を渡る〉

〈没収されます〉
 鶴川大橋のたもとに、「15センチ以下のヤマメ、イワナを釣りますと、釣り具一式没収します。注意してください。
                                                  
桂川漁協上野原支部 上野原警察署

 と書いてあった。

だれしも小さいのを狙って釣るわけではないだろうが、15センチ以下のヤマメ、イワナを釣っちゃったら
どうするのだろう。
すぐにリリースすれば許してくれるのだろうか。
 
〈鶴川大橋から見る中央自動車道〉

〈鶴川宿に入った〉

〈鶴川宿碑〉
 
〈鶴川宿と鶴川神社〉

〈朱塗りの蔵〉


〈パルテノン風の蔵〉
  
〈中央自動車道を渡って大椚方面へ〉

〈大椚一里塚跡〉

〈ここにも二十三夜塔が〉
 
〈大椚宿発祥の地らしい〉
  
       〈大椚観音堂〉                       〈二十三夜塔〉                    〈大日如来座像と千手観音菩薩坐像〉
 喜多さんとこのあたりの道標について不満を述べあう。

まず、分岐点にどちらに行けば旧甲州道中なのか表示がない。
さらに、時々ある道標には次の宿までの距離が表示されていない。

これは、きっと設置する人が実際に歩いてないからだね、という結論に至る。

次は野田尻宿という宿場なのだが、あと1.4kmとか表示してくれれば、元気にもなるし、時間の計算もできる。

東海道や中山道ではそのように表示してくれている道標が多かった。

〈中央自動車道に沿って進む〉
 ここは、長峰砦跡でこの細い砂利道が当時の甲州道中なのだそうだ。
このあたりの旧甲州街道は、中央自動車道の工事で分断され、実際に歩くことが困難だが、一部だけがこのように保存されている。

長峰砦とは、戦国時代の終わり頃の小規模な山城だったようで、国境警備の役割を担っていたようだ。


上野原の加藤丹後守が出城をここに築きました。丹後守は武田信玄の家臣で甲斐の国の東口を北条の侵略から守るために、この砦で監視しました。〈中略〉現在、この史跡の真ん中を中央高速道路が通っています。

と案内板に書かれている。

〈長峰砦跡で一休み〉

〈中央自動車道と旧甲州道中の位置関係〉

〈長峰砦跡碑〉
 さらに中央自動車道に沿って少し進むと、野田尻宿→の看板が見えてきた。

実は、その手前の中央自動車道をくぐるトンネルがそうかと思って途中まで行きかけたのだが、間違いに気づいて引き返した。

だから、分岐点(追分)には、「旧道こちら」の表示が欲しいのだよ。

この中央自動車道は、中山道を歩く際にも何回も通っているが、今歩いて渡っているあたりが旧甲州道中だったとは、思いもよらないことだった。

〈右の横断橋を渡って野田尻宿へ〉
 何事もこうして歩いてみなければわからないことが多い。

中央自動車道は右にカーブするが、その先に談合坂サービスエリアが見える。甲府や長野に遊びに行く時休憩によく利用するSAだ。

ぐりこ・やという、談合坂SAのショップのHPには、地名の由来が掲載してある。
流用させていただくと、

[1] 近郊の村の寄り合い場所として、この近辺で話し合いが行われた。
[2] 戦国時代に北条氏と武田氏が和議調停などの交渉ごとをした。
[3] 武田信玄の娘が北条氏に嫁ぐ際に婚儀の約束事について話し合った。
[4] この付近にも桃太郎伝説があり、さる、犬、キジが桃太郎の家来になる約束をしてダンゴをもらった。
 などなど諸説あります。面白いですね。
・・・とのことである。

〈談合坂SAが見える〉
【野田尻宿】

〈野田尻宿へはいった〉

〈比較するものがないが1m以上あるカエル〉

〈野田尻宿碑〉

〈野田尻宿案内板〉
 この甲州道中は、東海道や中山道と違ってやたらと宿場の数が多い。

前回訪れた、吉野宿の歴史資料館でそのことを聞くと、一つ一つの宿場が小さく、大名行列や、幕府の御用で助郷として駆り出される負担を小さくするためではなかろうか、という意味のことを言われた。

また、江戸へ下る時だけに使う宿、京方面へ上る時だけ使う宿もあったそうだ。

それにしても、今日歩く約20kmの間には、関野、上野原、鶴川、野田尻、犬目、下鳥沢と6つも宿がある。

〈明治天皇御小休所跡〉
 野田尻簡易郵便局は、街道の雰囲気を盛り上げる努力をしているようだ。

文字の表記も右からだ。
ただし、懐かしの赤い丸いポストは使えないらしい。

なぜ、戦前の表記は右から左へなのか考えてみた。
ほとんどの人が右利きである以上、横書きは左から右へ書いたほうが書きやすいに決まっている。

しかし、墨で縦書きにする文化の日本では、常に右端が書き始めの位置だった。本来このように横書きなどしなかった日本語も新聞の見出しなどでは横書きが必要になったため、このような表記となった・・・と推測するがどうだろう。

子どものころ、家の古いタンスなどには戦前の新聞が敷いてあって、右からの表記を不思議に思ったものだった。

〈野田尻簡易郵便局〉

〈犬嶋神社〉

〈懐かしさのただよう民家〉
 
       〈西光寺裏の竹藪を上る〉                                  〈坂の途中の右手には9柱の石仏が〉
 西光寺のところで、弥次さんより少し年配と思われる男性の一人旅に追いつかれた。

軽く会釈をしたが、その男性は西光寺へ詣でていくようだ。
弥次喜多道中は、端折って続きを歩くことにする。

その西光寺の正面を右に行くと、寺の裏手に長い坂があり、竹藪となっている。また中央自動車道を渡る横断橋があるが、たもとに「○この指止まれ橋」とあり、その右には、「故郷の山に向かひてケ・セラ・セラ なるようになるさ」などと書いてある。

日本語としては、「この指止まれ」と言われると、指にとまるのではなく、ストップしろと言っているように見える。

〈この指止まれ橋〉
 相田みつをさんを意識した方が、作って置いたのかもしれない。

その橋の上にも、いくつもそのような看板が置いてある。



それはそれで楽しめるのだが、何度も言うように次の宿の方向と距離を書いておいて頂けると、街道歩きの旅人としては非常に助かります。

〈橋の上にも教訓が・・・〉

〈談合坂SAは後ろに〉

〈橋を渡ると林に入る〉

〈林を出ると次は犬目宿〉

〈荻野一里塚 江戸から二十里(78.5km) 19番目〉
 先ほど西光寺で追いつかれた一人旅の人に再び追いつかれたので、「今日はどちらまで歩かれるんですか」と聞いてみた。
すると「大月まで」という返事。大月まではあと12kmくらいあるはずだ。

「お宅はどちらまで?」と聞かれたから、「猿橋まで行きたいが、手前の鳥沢で終了でしょうね。」と答えると、勝ち誇ったかのように「じゃ、お先に」と颯爽と追い越して行くのであった。

〈弥次喜多道中を追い越して行った一人旅〉

〈旧道はこの坂を上がる〉

〈矢坪坂の古戦場跡〉
 
          〈かつての激戦地の坂を上る〉                                〈菜の花畑の手前には耕運機で畑を耕す人が〉
 このあたりは矢坪坂といい、享禄3年(1530)4月23日、相模国の北条氏縄の軍勢が甲斐に攻め込み、この矢坪坂に進んだ。

一方小山田越中守の手勢が坂の上で待ち構え、両者は坂をはさんで対峙し、やがて激戦が展開されたところだという。

畑の中に古墳の案内板が見えたが、ここはパスすることにする。

〈畑の中に古墳の案内が〉
 先ほどから、犬が吠える声が聞こえていたが、この大きな犬小屋に大きな白い犬が閉じ込められていた。

道で出会うとちょっと怖いくらいの大きな犬で、あまり散歩もさせてもらえていないようだ。

犬小屋の中をぐるぐる果てしなく回り続けて吠えていたが、写真を撮る一瞬だけ御覧のようにポーズをとってくれた。

〈大きな白い犬の家〉
 動物を飼うのが人間に安らぎや楽しみを与えてくれるのはよく承知している。弥次さんも小さい頃、チロと名付けた犬を飼っていたことがある。

我が家でも、子供が犬を飼いたがったことがあった。
しかし、下の子どもがぜんそく持ちで、幼稚園の頃近所の猫の毛や、幼稚園から預かったモルモットの毛で、ひどいぜんそくを起こしたことがある。

一度飼った以上最後まで面倒を見てあげないと、飼われる動物がかわいそうだ。今も捨てられて処分される犬や猫は後をたたない。

〈このあたりにはあちこちに石仏が〉
 
〈さらに山中へ〉
 「座頭転がし」という看板があったのでのぞいてみる。

座頭転がしという名称は、中山道碓井峠を越える時にもあった。

たしかに、目の不自由な人はこのような道を歩くのは怖かったことだろう。じっさいに転がり落ちた人もいるのかも知れない。

〈座頭転がしから覗き込む〉
 ここでまた考える。

「座頭」とは江戸期における盲人の階級の一つであるが、このような言葉も差別用語だということで使えなくなってきた。

「精神分裂症」が「統合失調症」になったりした例がそれであるが、耳に優しくなっただけの話で、物事の本質を覆い隠し、何の解決にもなっていないような気がする。

〈転がり落ちた座頭を悼んだ地蔵か〉

〈さすがにりっぱな家だ〉

〈旧甲州街道新田宿 尾張の殿様定宿家〉
 新田という集落にやたらりっぱな門構えの家があった。
門の脇に「旧甲州街道新田宿 尾張の殿様定宿家」と表示があり、いわれと写真なども展示してあった。

ただ、この新田は正式な宿ではないようだ。

犬目宿の道標の隣に「君恋温泉」の案内板があった。

〈犬目宿道標の隣に君恋温泉の案内が〉
【犬目宿】
 
〈犬目宿に入った〉

〈犬目の兵助の墓〉

〈犬目の兵助の生家〉
義民『犬目の兵助』の生家

 
天保四年(1833)の飢饉から立ち直ることができないのに、天保七年(1836)の大飢饉がやって来ました。
その年は、春からの天候不順に加え、台風の襲来などにより、穀物はほとんど実らず、餓死者が続出
する悲惨な状況となりました。
 各村の代表者は救済を代官所に願い出ても、聞き届けてもらえず、米穀商に穀借りの交渉をしても
効き目はないので、犬目村の兵助と下和田村(大月市)の武七を頭取とした一団が、熊野堂村(東山梨郡
春日居町)の米穀商、小川奥右衛門に対して実力行使に出ました。称して、『甲州一揆』と言われています。  
 このとき兵助は四十歳で、妻や幼児を残して参加しましたが、この一揆の首謀者は、当然死罪です。
家族に類が及ぶのを防ぐための『書き置きの事』や、妻への『離縁状』などが、この生家である『水田屋』に
残されています。
 一揆後、兵助は逃亡の旅に出ますが、その『逃亡日誌』を見ると、埼玉の秩父に向かい、巡礼姿になって
長野を経由して、新潟から日本海側を西に向かい、瀬戸内に出て、広島から山口県の岩国までも足を
伸ばし、四国に渡り、更に伊勢を経ていますが、人々の善意の宿や、野宿を重ねた一年余りの苦しい旅の
ようすが伺えます。
 晩年は、こっそり犬目村に帰り、役人の目を逃れて隠れ住み、慶応三年に七十一歳で没しています。

   平成十一年十一月吉日                                上野原町教育委員会

 この犬目宿の兵助さんは、飢饉に苦しむ村人のために実力行使に出て、妻子を離縁の上逃亡の旅に出かけたという。

生家の前にある案内板を読むと、埼玉から長野経由で新潟へ、さらに広島や山口県の岩国まで足を延ばしたそうだ。

こんな所で岩国の名が出るとは因縁めいたものを感じる弥次さんであった。

〈瀧澤山 寶勝寺〉

〈白馬白瀧不動尊への参道〉


〈君恋の宿があったが時間がないので入浴できない〉
 
〈恋塚一里塚 日本橋から二十一里(82.4km)20番目のものです〉

〈山住神社〉

〈なぜか聖徳太子の墓が〉
 
〈恋塚の先の集落には江戸時代の石畳が残る〉
 大月市に入った。本日のゴールももう少しだ。

先ほど追い越して行った人は、大月まで歩くと言っていたが、もしかして「大月宿」ではなくて「大月市」まで歩くといったのか。

それなら我々と一緒じゃないか・・・と喜多さんと話していたが、ここからはあと8〜9kmくらいのものだから、きっと大月宿まで歩くのだろう。

弥次さんも、喜多さんに合わせて歩かなければそのくらいは歩ける。
東海道では30数キロを歩いたこともある。

しかし、空の色は夕闇色になってきている。

〈大月市に入った〉
 道の脇にシイタケ栽培のホダ木があった。

昔は、岩国の家でもシイタケを自家栽培していて、多いときには7,000本くらいのホダ木があったものだ。
クヌギの木にシイタケ菌を植え付けるときは、一家総出で手伝った。
ドリルで穴をあける係、円盤状のシイタケ菌をその穴に植える係、ふたを打ち付ける係、結構楽しかった。

車で帰った時に、1〜2本もらって横浜の家の裏庭でシイタケ栽培したこともある。

この先で1本数百円で売っていたが、さすがに電車で持って帰るわけには行かない。

〈シイタケのホダ木〉

〈旧道は右に下りて行く〉

〈中央自動車道の下をくぐる〉
 鳥沢の通りに合流するところにお地蔵さんとハシゴがあったが、よく見ると4体あるお地蔵さんには、すべて首がない。

手前のはしごは、このお地蔵さんのお世話をするためのものかも知れないが、何かいわれがあるのだろうか。来週歩く予定の十三峠には、「首なし地蔵」の伝説が残るが、その言い伝えはまた中山道で書こうと思う。

今日は藤野駅からこの鳥沢駅までちょうど20kmを歩いた。
20kmを歩かなければ途中に中央本線の駅はないのだ。

来週歩く岐阜県恵那駅の大井宿から、名鉄広見線の御嵩駅までは32km電車の駅がない。途中で宿泊できる宿は、予約した大黒屋しかない。

頑張って弥次喜多道中を楽しんで来ようと思う。

〈首なし地蔵〉

〈もうすぐ鳥沢駅〉

〈鳥沢駅に着いた〉
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