〈六日目〉 平成22年3月13日 土曜日 晴れ 気温22度 与瀬宿(相模湖駅)〜吉野宿(藤野駅)
【与瀬宿続き】
 月日の経つのは本当に早い。

昨年9月の5連休に、高尾駅からこの相模湖駅までを歩いてから、ちょうど半年が経とうとしている。

その間に中山道を中津川から大井宿まで歩いたのだが、今回は来週行く大井宿から大湫宿、細久手宿、御嵩宿までの足慣らしを兼ねて、甲州道中の短い距離を歩くことにした。

今週9日(火)には、東京でもうっすらと積もるくらい雪が降った。
東京や横浜ではすぐに溶けてしまったが、さすがにこのあたりでは駅前でも雪が残っている。

〈半年振りに相模湖駅から出発〉
 相模湖駅を過ぎてすぐの所に、東京から65kmの標識がある。
東海道だと大磯あたり、中山道だと熊谷あたりだ。

振り返ってみると、大磯を歩いたのは3年前の1月、熊谷を歩いたのは2年前の5月のことだ。その間に自分は何をしただろう。

会社も休まず仕事もちゃんとして、毎月家族が暮らせるだけの生活費を喜多さんに渡し、子ども二人も就職が厳しいものの大学生活を謳歌し、病気もせず、事故も起こさず、何も事件らしいことがなかったことが良かったことなのだろう。

でも、確実に成し遂げたことはある。
東海道五十三次を踏破したことと、中山道も6〜7割方を歩いたこと、合わせて甲州道中もとりあえず相模湖までは歩いてきたことだ。

〈東京日本橋から65km〉
 自分の中ではこのことが生きてきた証になっている。
さらに記録も残していることで、見直すと歩いた記憶が鮮やかに蘇る。

 文字が薄れて読みづらくなった標識「与瀬本陣跡」を国道20号線から右に折れると、それが旧甲州道中だ。

少し坂道を登ってゆくと、正面に「慈眼寺」がある。

〈与瀬本陣跡道標〉
 今日は天気予報によると18℃くらいまで気温が上がるらしい。
少し歩くと汗ばんできて、上着もセーターも邪魔になってきた。

弥次さんは、それらをリュックにしまいこんで、シャツの腕をまくりあげて歩くことにした。これならTシャツ一枚でもよかったくらいだ。

旧甲州道中の右側はすぐに山になっており、左は相模湖とのあいだのわずかな平地に家が立ち並んでいる。

街道沿いの梅の木はどの木も満開だ。

〈このあたりは平地が少ない〉
 この「与瀬上宿」の道標の先の階段を降りてゆくと、国道20号線に合流する。頭上は中央高速、20号線の下には中央本線が走る。

こうして歩く目線で見てみると、中央自動車道はそのほとんどは橋とトンネルでできていることがわかる。

その中央自動車道の左手に見える相模湖は、昭和22年(1947)に相模川をせきとめてできた人造の湖だ。

小さく遊覧のボートが見える。

〈甲州古道 与瀬上宿の道標〉
 
〈国道20号線と中央高速と中央本線が交わる〉                                  〈慈眼寺の鳥居〉

〈左手には相模湖が広がる〉

〈慈眼寺に渡る橋から 中央高速は順調に流れている〉
 車を運転しているとわからないが、この高速道路は長大な橋のようなもので、改めてその技術に感心する。

このあたりは横道というところらしいが、特に古を偲ばせるようなものは何も残っていない。

〈甲州道中横道の道標〉
 
〈旧道より相模湖を見下ろす〉
 畑の中に、竹で作った質素な鳥居が出現した。
秋葉神社と書いてある。手前には赤い帽子と肩掛けを着せてもらったお地蔵さん。

そういえば、この相模湖のあたりも相模原市となって、今年4月に政令指定都市になるらしい。たしか前は津久井郡と言っていたのではなかったか。

平成17年の国勢調査によると、相模原市の人口は約71万人、面積は328.8平方kmもあるらしい。ちなみに弥次喜多夫婦の住む横浜市は、人口367万人、面積は437.38平方kmなのだそうだ。確か23年前に東京から引っ越して来た時には横浜市の人口は320万人だったと記憶している。たった23年間で50万人近くが増えている。

田舎の山口県は小学生の時160万人と習った人口が、今は150万人ほどだそうだ。

〈秋葉神社〉
 中山道でよく見かける「二十三夜」の碑があった。

以下は、西川久寿男著
「道祖の神と石神様たち」より、

 18世紀の後半から昭和の初期にかけて、日本の各地で「講」を組織した人々が集まって、月を信仰の対象として精進・勤行し、飲食を共にしながら月の出を待つ、月待ちの行事をしました。その際供養のしるしとして建てた石碑(月待塔)のひとつが、二十三夜塔です。
崇拝の対象として十三夜は虚空蔵菩薩、十五夜は大日如来、十七夜から二十二夜までは、観音様を本尊とし、二十三夜は勢至菩薩を本尊として祀りました。
勢至菩薩は、智慧の光をもっており、あらゆるものを照し、すべての苦しみを離れ、衆生に限りない力を得させる菩薩といわれています。月は勢至菩薩の化身であると信じられていたことから、二十三夜講が最も一般的で全国に広まりました。


〈中山道でよく見かけた二十三夜の碑〉

〈こんなところに生花店が やました生花〉

〈橋沢の道標〉
 山の斜面を切り開いて道路はあるが、通る車はほとんどいない。

道の両側には、4日前の雪がたくさん残っている。しかし気温は22度近くになって暑いくらいだ。

〈雪は残るが暑い〉
 板金屋さんを過ぎたところで、道なりに上って行こうとすると、「旧甲州街道 左に 吉野宿」と小さく手書きの案内板が出ていた。

正しい道は、喜多さんが下っている道らしい。

地元の方が、親切に手書きの案内を出してもらっているおかげで、今までもずいぶん助かった。

それにしても、お役所では何もしないのか。他ではちゃんと案内板を出してくれている自治体もあったけどね。

〈旧道は左の道へ〉
 
〈陸橋を渡って吉野宿へ〉
  
〈雪の残る甲州道中を吉野宿へ下ってゆく〉

〈一見寒そうだが気温は22℃にもなっている〉
 甲州道中を歩くにあたっては、「ぼくたちが歩くシリーズ」のパパの地図を参考にさせてもらっていることが多い。

これほど精密な地図を作成されている方がいるから、弥次さんのHPには地図は載せない。どんなに頑張っても、これ以上の地図はできないだろうと思うからだ。

この道も、パパの地図で教えてもらった道だ。

〈旧道は畑の脇を行く〉
 相模原市作成の「甲州道中歴史案内図」を相模湖駅の案内書で貰ってきたが、「甲州道中プロジェクト」として、「現在、相模湖小仏峠から大月、笹子峠まで旧甲州街道の道筋を探り、道標をたてる活動が民間団体により進められています」と書いてある。

確かに道標はあるが、墨文字が消えかかっているし、何よりここが何とかいう宿だという道標だけで、どちらに行けば正しい旧道だという案内が全くない。

車で道標を運んで、設置するだけなのだろう。
実際に歩いてみれば、初めて歩く旅人がどちらに行けば旧道をたどって行けるか、そのことに思いが至ると思うのだが。

今からでも、そのような道標の設置をお願いしたいと思います。

〈道標はあるが案内は不親切〉
 今まで、東海道、中山道の宿場をずっと歩いてきたが、やはり訪れる旅人のことを考えてくれている自治体と、まったくそうでない自治体があるのは否めない事実だ。

そんなに費用がかかるとは思えない。
街道歩きに興味のある人用に、「旧道はこちら」と追分に道案内を掲示してくれるだけで、本当に大助かりだ。

〈自然の中を歩くのは気持ちいい〉

〈車道に合流したら右に〉

〈甲州古道 椚戸道標〉
 山道を下りきったところで、車道に合流。

道標には「椚戸」とある。何と読むのかと思ったら、ちゃんと振り仮名がふってあった。これは「くぐと」と読むのだそうだ。

その先に「蚕影
(こかげ)山」と書かれた石碑があった。
蚕影山は、カイコの神様で茨城県の蚕影大権現を祀ったもので、このあたりは「養蚕と炭焼き」が現金収入の道だったのだそうだ。

〈蚕影山の碑〉

〈見下ろしていた相模湖畔のホテルが真横に〉
【吉野宿】
 国道20号線の左手に「郷土資料館 ふじや」があったので、見学していくことにする。

引き戸を開けると、がらんとして誰もいない。
「こんにちは〜」ち声をかけると、奥から嬉しそうな顔をした60代半ばの男性があらわれた。

入場は無料だが、記帳して欲しいそうだ。見ると本日は一組来訪があっただけで、時間からいってもわれわれが最後の訪問者だろう。

これでは退屈で仕方ないであろう。
おじさんは、丁寧にあちこち案内していただいた。

〈吉野宿 郷土資料館 ふじや〉
 
            〈江戸時代の吉野宿〉                               〈五階建ての本陣と蔵 本陣は火災で焼失〉

〈吉野宿本陣跡〉

〈今にも崩れ落ちそうな蔵を保存している〉
 「山深い私たちのまちでは、養蚕と炭焼きが現金収入の道でした」

ここ「吉野宿」は江戸時代初期に定められた関東五街道の一つ「甲州街道」の十番目の宿場(江戸より十七里三町)で、ちょうど江戸と甲府の中間にあたります。往時には信州・高遠藩、甲府勤番などの参勤交代の常宿として、又、旅人たちの旅籠として栄えたところです。

 山深い私たちのまちでは、養蚕と炭焼きが現金収入の道でした。
山腹の傾斜地を桑園に開墾し、蚕の食べる桑を育て、飼育し、繭を生産することが最大の現金収入の道でした・・・〈ふじや案内パンフより〉

〈北白川宮殿下御宿営所〉
 案内していただいた方に、「あちこち歩いてきたが、自治体によって案内表示が親切なところとそうでないところ、歩道が整備してあるところとそうでないところがありますね」と話をすると、申し訳なさそうに「ここはだめです」と言われた。

「民間では多少道標を建てたりしているが、役所はまったくやっていないね。」と寂しそうであった。

資料館を辞去する時に、みかんを二ついただいた。

〈郷土資料館 ふじやを振り返る〉
 吉野橋を渡り「中華福龍」を越えた先の電柱に「甲州古道」の表示があった。危うく見逃して国道を行ってしまうところであった。

右手に藤野中学校を見ながら歩くと、また国道20号線に合流。
東京から69kmの道標があった。
相模湖駅を歩き始めたところで65kmだったから、ここまで国道20号線では4kmしか進んでいないことになる。

しかし、われわれ弥次喜多道中は、道を間違えたり、山道をくねくねと歩いてきたから2kmくらいは余計に歩いていることだろう。

〈電柱に甲州古道の案内が〉

〈右手は藤野中学校〉

〈東京から69km〉

〈梅の木のりっぱな家に「うめのき」の文字が〉

〈横山薬品改めシーゲル堂〉
 今日は家を出たのが遅かったことに加え、車で来たら渋滞で相模湖駅を11時半頃のスタートとなってしまった。

今は3時少し前。次の駅「上野原」まで歩いてもよかったのだが、無理をせず帰ることにする。

食事をしようと駅前を探したが、あまりよさそうな店がなく、横浜まで帰る途中で食べることにして、駅前の駐車場から車を出す。

それにしても、今日の道中は5kmくらいにしかならない。
少し物足りない街道歩きだった。

〈JR中央線 藤野駅〉
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