〈4日目〉 平成21年5月31日 土曜日 曇りのち雨 日野宿〜駒木野宿(高尾)
【日野宿続き】  
 5月も末になり、中山道を上松宿まで歩いてからひと月が経とうとしている。早く続きを歩きに行きたいのだが、何しろ木曽路は遠くて日帰りというわけにはいかない。6月か7月には一泊か二泊で今度は、妻籠・馬籠の「中山道の華」とでもいうべき宿を歩く予定だ。しかし、それまでどこも歩かないのはさびしいので、喜多さんと二人で3月に歩いた日野宿から続きを歩くことにした。

日野駅からずっと続く坂を登り切ると大坂上に着いた。長い坂の上という非常にわかりやすい地名だ。

〈日野宿 大坂上〉
 このあたりは戦争中の空襲で焼かれたのか、ほとんど旧街道の見どころはない。国道20号線に合流すると、右手に大きな工場が見えてきた。日野自動車工業だ。あ、なるほど。日野の自動車会社だから、日野自動車なのか。この年になって初めて知った。

トヨタ自動車も本田技研工業もマツダも鈴木自動車も創業者の名前だからてっきり日野さんが始めた会社かと思っていた。去年あたりから自動車産業は大変なことになっているが、バス・トラックに特化した日野自動車はどうなのだろう。

〈日野自動車〉
 左手にコニカミノルタの大きな工場を見ながら坂を下ってゆくと、右手に「とうふ屋」というには立派すぎる店が見えてきた。

この店は「うかい」という豆腐専門店のようだが、二ツ井とうふ3,990円とある。喜多さんは冷奴を食べて行きたいというが、冷奴だけで済ませてくれそうにないので続きを歩くことにする。

〈とうふ屋 うかい〉
 国道16号線を越えた先に、いかにも旧道ですという感じの道があった。

このあたりはほとんど国道20号線を歩くしかないので、たまに旧道が残っているとうれしい。

〈左が旧道〉
大和田橋

 旧道からまた20号線に合流するところに「大和田橋」があった。大和田橋のたもとに説明板があったので読んでみると、『八王子は太平洋戦争終結の13日前、8月2日未明に米空軍B29爆撃機180機の空襲を受け、約450名が死没、2,000余名が負傷し、旧市街地の約80%の家屋が消失する被害を受けました。その時多くの市民が大和田橋の下に避難し、尊い命が助かりました。大和田橋の歩道上には、この空襲の時投下された焼夷弾の跡が17箇所残っています。・・・弾痕の保存については、上下歩道上各1箇所は透明板で覆い、その位置を示してあります。』

60年以上も前の悲しい戦争の傷跡はこんな所にも残っていた。

〈浅川にかかる大和田橋〉

〈大和田橋のたもとの説明板〉

〈焼夷弾の弾痕が保存されている〉
 その大和田橋のそばには、しゃれた建物が建っている。平和の象徴のような結婚式場を備えたホテルニューグランドだ。

手前の結婚式場の階段では、若い女性が二人赤いカーペットを敷いていた。今日もこれからめでたい結婚式があるのだろう。本当に我々は、良い時代の良い国に暮らしているのだと実感する。

〈ホテルニューグランド〉
 浅川を越えて右に折れると、すぐに右手にこんもりと緑が見えてくる。

一里塚跡と芭蕉の句碑があったが、恥ずかしいことに国文科を一応卒業した弥次喜多道中には芭蕉の句が読めなかった。帰ってから調べると
『蝶の飛ぶはかり 野中の ひかけかな』変体仮名は学生時代から苦手だった。年をとれば読めるようになるかも知れないと思っていたが、やはり読めない。少し昔の教科書を引っ張り出して勉強する必要がある。

〈一里塚跡碑〉

〈芭蕉句碑〉

〈こんな所にも三猿が〉

〈八王子出身力士八光山の像〉
 大和田橋の説明板にあったように、八王子は空襲で80%の家屋を焼失したという。日本中いたるところが、アメリカの爆撃機により街を焼かれた。しまいには空襲の最たる爆弾「原子爆弾」を広島・長崎の街は落とされてしまった。

弥次さんの父親は、戦争中満州や鹿児島に派兵されていたが、横浜にも駐屯していたことがあった。弥次さんが家を買ったすぐ近くの女学校に駐屯していたというのだから、世の中の巡り合わせというものは不思議だ。その父親が、その昔空襲の後の焼死した人の後始末に駆り出された話を小さい頃に聞いたことがある。

〈市守神社大鳥神社〉

〈アーケードが長く続く〉

〈八日市宿跡碑〉
 我々の親世代の青春時代は何ともいやな時代を生きざるを得なかった。あとの世になって戦争反対を叫ぶのは誰でもできる。当時は、朝日新聞を筆頭にマスコミがこぞって戦争賛美をしていたのだ。勝った勝ったと囃せば一般大衆は信じるしかない。今の北朝鮮を単純に非難できるだろうか。

などと考えながら歩いていると、味のあるこんにゃくやさん「なかのや」があったが、残念なことに、日曜日は定休日だそうで閉まっていた。

〈こんにゃく屋さん〉
 まっすぐ行けば「陣馬街道」、左が甲州街道だ。

バス停も「追分」で、この追分からみごとな銀杏並木が始まる。この銀杏並木は、大正天皇を昭和2年「多摩御陵」に埋葬した時に植えたものだというから、約80年も経っていることになる。

〈甲州道中は左に〉
 
       〈見事な銀杏並木〉                 〈日本橋から47km〉
多摩御陵

 この「多摩御陵」は大正天皇の御陵、その後貞明皇后が昭和26年に「多摩東御陵」に、そして平成になり昭和天皇の「武蔵野御陵」と香淳皇后の「武蔵野東御陵」が建立された。大正天皇がこの「多摩御陵」に埋葬される以前は、天皇の御陵はすべて近畿地方にあったのだそうだ。

機会があれば、昭和天皇の御陵に参拝してみたい。昭和天皇の「大葬の礼」はついこの間のことのような気がする。あれから平成も21年になった。平成元年生まれの息子も20歳だ。

〈多摩御陵参道〉

〈旧甲州道中は右へ〉

〈旧甲州道中の標識〉
 「多摩御陵」の先の旧道は、20号線の右側に残っている。この道は、歩道も広くバリアフリーで立派な道になっている。両側の家も立派な家が多い。昔からこの場所に住んでいる人が多いのだろうと思う。

八王子では見えなかった山が、道の向こうに見えてきた。もうすぐ本日の終点「高尾」駅だ。今日は横浜から車で来て、この先の高尾駅の近くの駐車場に入れてきた。雨も降り始めたことだし、さっさと帰ることにする。

〈広い旧甲州道中〉

〈お富さんの歌詞のよう〉

〈住宅地にひっそりと残るお稲荷さん〉
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