〈三日目〉 平成21年 3月14日 土曜日 晴れ 府中宿〜日野宿

〈自宅付近から見える富士山〉
 来週は、姪のKちゃんの結婚式で広島に行かねばならないので、天気がいいのを幸いに甲州道中の続きをを歩くことにする。

横浜の我が家は、マンションの十数階に当たるくらい高い所にあるので、歩いて帰るのが大変な代わりに晴れた日にはこのような富士山の絶景を堪能することができる。

横浜から東横線に乗り、渋谷から井の頭線で明大前に行くつもりであったが、渋谷駅に着いてみれば下北沢で人身事故らしく井の頭線がストップしているという。
しかたがないので、新宿駅経由で京王線に乗って府中を目指す。


〈旧甲州街道の案内板 江戸時代は甲州道中と言った〉
 それにしても、毎日のようにどこかで人身事故が起こっている。
ほとんどが飛び込み自殺なのだろうが、世の中辛い人が多いのだなと改めて思う。
いやなことは忘れて街道歩きでもしてはいかがですか。 

東海道も中山道もそうであるが、都心に近いところではなかなか街道歩きの雰囲気は味わうことが難しい。

なんということのない道が続くが、このような道でも歩いていかないことには次の景色はやってこない。

〈府中宿の甲州道中〉
  
〈江戸時代から続くであろう街道沿いのお地蔵さんや常夜灯〉
府中の英雄 近藤勇

 西調布駅の近くの西光寺に近藤勇の座像がある。

説明板によると・・・


近藤勇は将軍慶喜から許された大名格(若年寄格)として大久保剛と改名、甲陽鎮撫隊を編成し、甲州街道を甲府に向けて出陣した。
途中思い出多い故郷上石原では、長棒引戸の駕籠を降り小姓を従えて、遙か氏神様の上石原若宮八幡宮に向かって戦勝を祈願して西光寺境内で休息、門前の名主中村勘六家で歓待をうけたのち、多くの村人に見送られながら出立し村境まで歩いた。
天下に知られた英雄がふるさとへ錦を飾ることはできたが、戦況利あらず勝沼の柏尾山の戦いに敗れ慶応四年四月下総流山(千葉県流山市)で大久保大和として西軍に出頭、同月25日江戸板橋で刑死、時に僅か35歳波瀾万丈の人生を閉じた。


〈近藤勇ゆかりの西光寺〉
 
〈近藤勇は府中では英雄だ〉
 何度も書いているように、その首は京に送られ晒されたあと、東海道藤川宿に葬られた。藤川宿宝蔵寺に首塚はある。

 このあたりの名主は中村家であった。
近藤勇が休息したのはこの家かどうかわからないが、この立派な家も中村さんだった。

東海道でも中山道でも、江戸時代の本陣や名主さんの家が立派に今に続いているのを見ることができる。
一方で本陣跡の碑のみのところも多く、それさえもないところも多い。
何代にもわたって大きな伝統のある家を引き継いでいくのは本当に大変なことなのだろうと思う。

〈府中宿中村家〉
行人塚

 この塚は「行人塚」といい、伊達藩士で医師だった意仙が薬師如来に帰依し、諸国遍歴の末この地にとどまり薬師如来像を造り、大願成就の後ここに自ら墓穴を掘り村人に自分の叩く鉦の音がしなくなったら、我が命のつきたときといって入定したのだそうだ。

昔はこのような行いが生き仏としてあがめられた。
確かに誰にでもできるようなことではないが、信心の力は恐ろしい。

〈行人塚〉
 飛田給は「とびたきゅう」と読む。

荘園の領主から民衆に任された田地を「給田地
(きゅうでんち)」と呼び、この辺りの領主が「飛田」という人で、その人から任されたから「飛田給田地」、略して「飛田給」となったのだという。

現在の飛田給は、田地など全くなく住宅街が続く。

〈飛田給の甲州街道〉
  
〈小さな神社の鳥居があちこちにある〉

〈大國魂(おおくにたま)神社の入口の御神木〉
武蔵総社 大國魂神社

当神社は、大國魂神を武蔵の国魂と仰いで、鎮祭し祠った神社である。第12代景行天皇41年 (111年) 5月5日大神の託宣によって創立せられ武蔵国造が代々奉仕して祭務を司った。其の後孝徳天皇の御代に至り、大化の改新(645年)により武蔵の国府がこの地に置かれて、当社を国衙の斎場として、国司が祭祀を奉仕して国内の祭政を司った。国司が国内諸社の奉幣巡拝等の便により側に国内の諸神を配祀したので「武蔵総社」と称し、又両側に国内著明の神社六社を奉祀したので「六社明神」「六所宮」とも称された。鎌倉幕府以後徳川幕府に至るまで代々幕府の崇敬厚く、再三社殿を造営し、徳川幕府より社領500石を寄進せられた。明治18年より昭和21年迄官幣小社に列せられ、其の後宗教法人となる。 (例大祭五月五日)

大國魂神社・府中市観光協会
 

〈大國魂神社本殿〉
 府中の東京競馬場のそばにある「大國魂神社」には初めて詣でた。
敷地は1万坪もあるのだという。
たくさんの参詣客が詣でていて、本殿では結婚式も執り行われていた。

大國魂大神は、出雲の大国主命とご同神で、大昔武蔵の国を開かれて人民に衣食住の道を教えられ、また医療法やまじないの術も授けられた御方で、俗に福神(大黒神)又は縁結びの神として著名なお方であります。・・・と神社のHPには書かれている。
鮎最中

 明治14年6月、明治天皇はこの地を訪れ鮎漁を楽しまれたのだという。それを記念して明治35年ここ亀田屋で生まれたのが鮎もなかで、店に入ってみると、バラ売りもしていたので、喜多さんと息子への土産に3つ購入する。


 

〈鮎最中の亀田屋〉
この鮎最中は、家族にもなかなか好評であった。

故郷の岩国も鮎の産地で、錦川では観光用ではあるが、いまも鵜飼いが行われている。鮎最中もあったような気がする。

鮎釣りをする人も多く、いただき物が多かった我が家では、小さい頃は鮎が日常的に食卓に載っていて、川魚が好きでない弥次さんは見ないふりをしてほとんど食べなかった。

鮎の刺身を食べる人も多かったので、小学校のギョウチュウ検査では川魚特有の「横川吸虫」に感染している子供が多かった。

現代では、この寄生虫に感染する人は、白魚や鮎などの高級魚を生で食べることのできる富裕層か、アユ釣り愛好者に限られるという。

〈鮎最中〉
  
〈高札場跡〉                                                         〈ほうきの専門店〉
高安寺

 高安寺というりっぱな寺があったので入ってみる。

説明板を読むとこの高安寺は、
平将門を討ち取った藤原秀郷の屋敷跡に建てられたのだという。250年後には弁慶と義経もこの寺に寄り写経をしたという伝説もある。

高安寺の名は
足利尊氏が自分の名から付けたが、小田原北条氏の庇護が無くなり急速に衰えた。しかしこれを憂いた青梅二俣尾海禅寺の徳光禅師が徳川幕府より御朱印十五石を拝領し復興したとある。

〈高安寺のりっぱな山門〉
  
                          〈水子地蔵にはたくさんの風車が〉                         〈木の化石〉
奪衣婆

 山門の左右には普通の仁王像があるのだが、裏には恐ろしげな奪衣婆がいた。
信仰の厚い人に死んだあとの恐怖を味あわせていたのだろう。

それにしても、人間は想像力豊かに死んだあとの世界を想像してきた。仏教では地獄に落ちるということを念仏を唱えることで回避しようとした。極楽に行けば蓮の花に囲まれた浄土があると教えた。
そのことで生きているうちの悪行を思いとどまればみんなが助かるのだが、世の中に悪いことはなくならない。

〈仁王像の裏には奪衣婆が〉
弁慶硯の井戸

 寺の奥には、弁慶が写経をした時の「弁慶硯の井戸」があったらしいが、気付かなかったので見学できなかった。

奈良の吉野に桜を見に行った時に訪れた、後醍醐天皇が南朝の皇居とした「吉水神社」に、義経の鎧や静御前の着物ががさりげなく展示してあって重要文化財とあった。

これから奥州に逃げ延びるのにそんなものを置いて行っていいのかと思っていたが、最近ドラマに使われたものだと知って納得した。

そんなものに「重要文化財」はないだろう。

〈弁慶坂〉

〈内藤家の冠木門〉
秋葉大権現常夜灯


 鎌倉街道を越えた左手に交番があり、その隣に秋葉大権現常夜灯があった。

常夜灯は、本来夜道を行く旅人を導くものなのだろうが、昼間しか歩かない現代の弥次さんにとっても心強い道しるべだ。


〈秋葉大権現常夜灯〉
熊野神社

 熊野神社では、平成14年に最大最古の「上円下方墳」が発見されたのだそうだ。

大きな看板があったので、とりあえずのぞきに行ってみると、本殿の裏手に上が丸く下が四角の「上円下方墳」が再構築されつつあった。

畿内に多い「前方後円墳」というのはなじみ深いが、「上円下方墳」は初めて見た。

〈熊野神社〉
上円下方墳


 小学校の時に社会で習った時には、実物を見ないで教科書だけで覚えるものだから、フーンというだけだったが、こうして実物を見てみると上が丸くて下が四角だから「上円下方墳」なのだなとよ〜く納得できる。

それにしても、昔の豪族なのだろうがおおげさな墓を造るものだね。

〈これが上円下方墳〉
  
〈やっと日本橋から33km〉                     〈国立市に入った〉                        〈秋葉常夜灯〉
 国立市に入ったところで昼食を終え、さらに進むと、左手に「谷保天満宮」があった。
境内ではきれいなニワトリがたくさん徘徊している。

この谷保の天神様は、菅原道真公が太宰府に流されて三年後に父の死を伝えられた三男の道武が、
父道真の像を刻みここに祀ったことにはじまるという。
しかし、その出来が今ひとつ良くなかったため谷保天(
野暮天)と呼ばれるようになったのだそうだ。

この年になってもいろんなところで勉強になることがあるね。

〈谷保天満宮〉

〈谷保天神のにわとり〉
  
                                                〈立川市に入った〉
  
                       〈日野の渡し場跡の碑〉                      〈多摩川を渡る〉
  
                                                  〈多摩モノレールも多摩川を渡る〉
 東海道に続いて多摩川を歩いて渡るのは2回目だ。
川崎では下流だからかなりの距離があったが、上流の日野ではそれほどでもない。
江戸時代にはやはり渡し場があったらしく、ひっそりと渡し場跡の碑があった。
赤字だという多摩川モノレールも多摩川を渡ってゆく。
日野渡船場跡


 かつての渡し場はこの橋の位置ではなく、上の写真の中ほどあたりだったようだ。

普段車で走れば、このような渡船場跡のような説明板にはまず気がつかない。

〈日野渡船場跡〉
【日野宿】

〈日野本陣跡〉

〈土方歳三の姉が嫁いだ〉
日野宿本陣 土方歳三の姉の嫁ぎ先

 日野宿本陣に着いた。
この本陣は、佐藤彦五郎が名主を務めたのだが、土方歳三の姉が嫁いだ家でもある。
だから、この家には土方歳三がしょっちゅう来ては寝転がっていたという。
近藤勇や沖田総司、井上源三郎などが京に上る前に激しい稽古をしていたところでもある。

数年前までは、子孫の方がこの建物で蕎麦屋さんをしていたらしく、多少の改造の跡が見える。

〈土方歳三も寝転がった部屋〉

〈市村鉄之助の隠れていた部屋〉
 土方歳三は函館で戦死する直前に、小姓を務めていた市村鉄之助に自分の写真と遺髪を渡し、日野の家族に届けるよう命じた。

市村鉄之助は、官軍に見つからないよう潜伏しながらも、この日野の本陣にたどり着き、佐藤彦五郎に歳三から託された品を渡した。
まだ15歳の少年だった。

佐藤彦五郎は官軍に鉄之助の存在を知られるのを恐れ、2年間も上の写真の部屋で過ごさせたそうだ。

司馬遼太郎も「燃えよ剣」を執筆するにあたり、数回訪れてこの部屋で構想を練ったという。

歴史の余韻に浸って、本日の街道歩きはここで終了。

〈日野本陣は今でもりっぱ〉
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