〈2日目〉 平成21年2月21日 土曜日 晴れ 内藤新宿〜府中宿
内藤新宿続き

 先週に引き続き甲州道中の続きを歩くことにする。

前回歩き終えたのは新宿駅南口であるが、少し心残りのところがあったので、新宿御苑前で地下鉄を降りて新宿中心地を目指す。新宿伊勢丹の手前で左に折れ、さらに右に行くとそれが甲州街道だ。


〈新宿伊勢丹〉
   
悪名高い「新宿歌舞伎町」は伊勢丹の先をもう少しまっすぐ行く。弥次さんが学生時代にアルバイトをしていた
「紳士クラブ」という雀荘は、その歌舞伎町にあった。18歳か19歳の頃だから、今から34〜5年も前のことだ。
田舎から初めて東京に出てきた純朴な青年は、いつの間にかこんな繁華街で、しかも新宿のやーさんが集まる
麻雀屋さんでアルバイトをすることになった。そんなつもりは全くなかったのに・・・。
   

〈甲州街道は右に〉              〈変わった形の建物は東京モード学園〉
   

〈超高層ビルのはしり安田ビル〉            〈都庁ビルも見上げるばかり〉
   
クリスマスイブ

 どうにもこのあたりは超高層ビルばかりである。弥次さんが学生時代の1970年代から、新宿西口には
住友ビルや安田ビル、京王プラザホテルといった超と名のつく高層ビルがどんどん建てられた。池袋の
サンシャインビルもそのころ建てられたのを覚えている。友人のBが住んでいた目白のアパートから建設
中のビルがよく見えた。

大学3年だか4年だかのクリスマスイブの夜、弥次さんは喜多さんを誘って白くてすその広がった安田ビル
(だったような気がする)の上層階にあるレストランに食事に行ったのであった。貧乏学生にしてはずいぶん
と思い切ったイベントだった。喜多さんはライターをクリスマスプレゼントにくれたのだが、弥次さんは
何も用意していなかったので、帰りに喜多さんが欲しいと言ったろうそくで回るクリスマス飾りを買った。

あれから30数年も経ったが、喜多さんとは今もこうして一緒に街道を歩いている。
   

〈NTTビルと東京オペラシティ この時には数年後に何度も東京オペラシティーのステージで演奏できるとは思いもしなかった〉
道供養碑


 笹塚の交差点手前にコンクリートつくりの道供養碑があった。このあたりは甲州街道と中野通りが交わるところで、地形が少し低くなっていて、江戸時代から「牛ヶ窪」と呼ばれ、幡ヶ谷地域の農民が雨乞行事を行う場所だったという。

今は高いビルしかない場所であるが、江戸時代は雨乞いをしなければならないほどに、畑がたくさんあったのだろう。

〈道供養碑〉
   
明大前商店街

 世田谷区松原という地名になった。大学2年の後半から2年間と半年住んだ懐かしい町だ。懐かしさの余り、甲州街道から左に折れ明大前の商店街に入ってみることにする。

この商店街には、かつて「しま」という昼は喫茶店、夜は飲み屋でアンプジラにパラゴンという当時何百万円もする、学生にとってはとんでもないオーディオ装置が置いてあった店があった。基本的にはジャズしかかけないのだが、そのころはまっていたピンクフロイドのレコードを持って行っては、お客さんのいない時にアルバイトのお姉さんにかけてもらって聴いていた。

〈明大前商店街〉
   
みんなのたまり場「しま」

 その「しま」は「志満」となって、京王線の反対側に移転していた。今は、夜だけ営業の本当の居酒屋になってしまっている。この「しま」は、われわれ岩国高校の同期のたまり場になっていた。

この店でアルバイトをしていたFは、明大卒業後そのままこの店の店員になってしまったし、法政に通っていたKはこの店の常連さんに誘われて、ある団体の職員になった。1〜2年前にこの「しま」に集まって飲んだ時、マスターに「30年前によく来ていたのを覚えてますか」と聞いてみたけど、さすがに覚えてくれてはいなかった。

〈学生時代通っていた京王線沿いの道〉
   
春夏冬

 お〜〜〜っと。学生時代によく通ったラーメン屋さん「春夏冬」があるではないか。この店は、弥次さんが明大前のアパートに引っ越した後に開店した店で、オープンした時のことはよく覚えている。明大前の駅からアパートまでの間にラーメン屋さんがなかったから、これはいいところにできたと喜んだものだ。お互い大学生だった喜多さんも一緒に食べに行ったことがある。

これはやはり久しぶりに入ってみるしかないだろう。ラーメンを注文して、奥さんに話しかけてみた。もしかして、店だけが同じで経営者は変わっているかもしれない。「この店はずいぶん古くからやってますよね」「そうですね。32年になります。」

〈ラーメン屋さん 春夏冬〉
   
 やはり、あの時の奥さんだ。あの当時、若くてきれいな奥さんだなと思ったひとはもう60前後に見える。そりゃそうだ。大学生だった弥次さんも53歳になった。メニューもずいぶん変わっていて、あの当時よく食べた「生姜焼き定食」はメニューにはなかった。その代りラーメンの種類がずいぶん増えていた。

山上たつひこの「がきデカ」とか鴨川つばめの「マカロニほうれん荘」が連載されていた少年チャンピオンをこの店でよく読んでいた。奥さんと思い出話に花を咲かせて、「また来ます。いつまでも続けてください」と激励して、甲州街道に戻る。バス停に「一里塚」の文字が見える。
【高井戸宿】
 このあたりは高井戸という地名だ。宗源寺の境内にある「高井堂」という不動堂が「高井戸」の地名になったといわれているらしいが、このような説は後からこじつけたものも多い。

この寺の先にある石屋さんには、興味をひかれるものがたくさん置いてあった。吉田松陰や布袋さんや二宮金次郎にまじって、東海道や中山道でたくさん見てきた道標がたくさんあるが、まさか本物ではないだろう。

〈宗源寺〉
   

〈この石屋さんには変わった彫り物が多い〉
 
 「八幡山駅」を過ぎた先を20号線はまっすぐ行くが、甲州道中は左の細い道にわかれる。

「芦花公園駅」「千歳烏山駅」「仙川駅」と甲州道中は京王線の住宅街と並行して進む。旧道に入るととたんに車の通行量が少なくなり、歩くには快適な環境になった。

〈甲州道中は左に〉
   
 「大橋場の跡」という碑があったが、名前からするとかつてはこのあたりに大きな橋がかかっていたのだろうか。

地蔵さんも傍らの石碑も関連性がよくわからない。

〈大橋場の跡碑〉
   
新一里塚跡碑

 この石碑は明治3年に内藤新宿を起点とし、甲州街道に建てられた新しい一里塚で、「内藤新宿より三里 品川懸」とある。明治になって新しく一里塚が作られたの?明治3年だとまだ江戸時代と変わらなかったのだろう。

その先には、とても世田谷区にいるとは思えない民家が残っていて、信州を歩いているような気にさせられる。野菜の無人販売もあり、世田谷区の懐の深さを感じさせる。人参一袋100円は安いのではないですか。

〈新一里塚跡碑〉

〈世田谷区とは思えない民家〉

〈人参しか残っていなかった〉
キューピーマヨネーズ

 「仙川駅」を過ぎ、キューピーマヨネーズの工場を過ぎると、右に入る旧道がある。この細い道には旧道の雰囲気がよく残っていて、「瀧坂旧道」の碑や「薬師如来像」もある。

そういえばキューピーマヨネーズの卵の使用量は、日本全国で使う卵全体の25%だそうだ。ちょっとびっくり。

〈旧道は右の細い道を下る〉
 日本橋から22kmの道標があった。東海道で22kmというと「生麦」あたりだろうか。中山道では「蕨宿」あたりだろう。

まだまだ、江戸を出たばかりという感じだ。今日は、24km地点の調布駅まで歩いて帰ることにする。
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