〈十三日目〉 平成23年11月26日 土曜日 晴れ 竜王駅〜穴山駅

〈竜王駅から南アルプスを望む〉
ひと月ぶりの竜王駅

 ひと月ぶりに竜王駅に戻ってきた。
この竜王駅は安藤忠雄が設計したそうで、モダンな駅舎だ。

今朝は、たまたま横浜駅で「特急はまかいじ」に乗れる時間だったので、甲府駅まで乗り換えることなくやってこれた。最初の計画では、八王子までは横浜線の各駅停車、八王子で「特急あずさ」に乗り換えるつもりだったので、甲府での乗り換えも連絡よくいくはずだった。

しかし、計画を変更して「はまかいじ」に乗ったものだから、甲府までは順調にきたものの、次の竜王駅までの各駅停車が30分待ちだ。喜多さんは歩こうとか、バスに乗ろうとかいうが、次の普通電車を待つのが一番確実で早い。

〈竜王駅を振り返る 昇仙峡は右折〉

〈竜王新町下宿道祖神場 丸石神体径45cm 銘衢神〉

〈この場所は江戸時代の人々の寄合場〉

〈中央本線が南アルプスに突き刺さる〉

〈結構急な赤坂にさしかかる〉
 
〈赤坂から振り返ると富士山が見えてきた〉
甲州の富士山

 東海道を歩いた時には、いつも右手に見えていた〈左富士が2か所あるけどね)富士山だが、甲州道中のこのあたりまでは手前の山にさえぎられてなかなか見ることができなかった。

静岡の人も山梨の人も自分の県から見る富士山が最高だと譲らないらしいが、横浜の自宅からも富士山はよく見える。このように広範囲で美しく見えて、それぞれに神々しい山はほかにあるだろうか。


ただ、このあたりではまだ手前の山が高く、すそ野までは見ることができない。

〈赤坂の供養塔〉

〈諏訪神社 左手には御柱が〉
 
〈赤坂の上は台地が続く〉
 
〈甲斐駒ケ岳は雪で真っ白〉

〈蔵造の並ぶ美しい旧道〉
明和の石畳

 つつじ寺の参道のこの石畳は、明和2年(1765)来のものだそうで、250年前のものだそうだ。

石畳のまわりと石の間は、コンクリートで補強してあった。

〈自性院 明和の石畳〉

〈寺町 蔵屋敷群〉

〈立派なお屋敷が多い〉

〈中央本線の煉瓦のトンネルをくぐる〉
 
〈泣石 現在地より100m南東にあり中央部の割れ目から水が出ていたが、鉄道の開通で水脈が絶たれたのだそうだ〉

〈蔵屋敷が続く〉
山梨県指定文化財 船形神社の石鳥居

 背の低い喜多さんですら、もう少しで鳥居にぶつかりそうだ。

 この鳥居は、総高2.53m、幅は1.70m。材石は石英角閃安山岩である。右柱の刻銘によって応永4年(1397)に造建されたことがわかり、確実な室町時代初期の遺構として、そのころの基準を示す点がきわめて貴重である。両柱はわずかに転びを見せ、幅にくらべて背が低く安定感があり、姿は後世のものと著しく相違し、総じて古格を保つ名作である。
HP「やまなしまなびネット」から

〈船形神社の鳥居〉

〈柿の木はどれも鈴なり 誰もとらないのだろう〉
 
〈二十三夜塔の前をゆく〉

〈塩川橋を渡る〉

〈塩川越の富士山〉
 
〈しばらく中央本線に沿って歩き韮崎市に入る 鉄橋を特急あずさが行く〉
鰍沢横丁

 ここから「みのぶ道」駿信往還ともいい、峡北地方や諏訪・佐久地方の江戸城納めの年貢米を馬背に積んで、鰍沢河岸〈幕末には船山河岸)までの通行の道筋である。
 ために沿道には、駄菓子屋・馬方茶屋など軒を並べてにぎわったが、明治36年(1903)国鉄中央線開通して、荷物輸送経路も一変し、往時の活況は消えうせた。しかし町民には忘れじの横丁である。

〈鰍沢横丁碑〉
 
〈キッコーゲン井筒屋と韮崎宿本陣跡〉

〈霊岸寺山門 普照閣〉
 
〈韮崎窟観音 天長5年(828)僧空海〈弘法大師)がお造りになられた とある〉

〈千体仏 寛文7年(1667)にすべて安置されたそうだ〉
 
〈弘法大師御尊像 828年弘法大師がお造りになられた石像であります・・・とあるが本当?〉
 
〈わきの洞窟は抜けられるようだが岩がもろそうなので引き返す〉
昼ごはん・・・

 韮崎駅は大きい駅だろうから、駅前にはかなりの食事ができる場所があるだろうと甘く見ていた。

街道から駅前までは数百メートルあるのだが、駅前まで行ってみても何もない。食堂らしき店はあるのだが開いていない。

一軒だけ暖簾の出ている食堂があったが、外に何も出ていないので、喜多さんがいつの食材が出てくるかわからないからやめておこうという。

仕方ないから街道まで引き返して来たら、目の前に「地場産野菜&お食事 バーバラ・ハウス99」という看板が見えた。
 メニューは、本日の定食とうどんとカレーだけだそうだが、何とか昼ごはんにありつける。

二人とも、本日の定食を注文して待つことしばし、焼き立てのサンマと、カブの生姜焼きと、もやしの味噌汁と、漬物、さらにコーヒーゼリーまでついて500円。

一言でいうと非常においしかった。まさか山梨県の山中でさんま定食を食べるとは思いもよらなかったが、非常にお得な昼食であった。


この店の写真を撮っていると、左端に写っているご婦人が「どこから来たか」「うちはリンゴ園をやっているから寄ってくれ」と勧められたが、先を急ぐので失礼することにする。

〈宝塚創設者 小林一三翁生家〉
カラスも考える

 こつんと音がしたので見ると、アスファルトにクルミが一つ落ちている。そばにいるカラスが割るために上空から落としたようだ。

しかし、残念ながら堅いクルミはそう簡単に割れてはくれない。かわいそうなので、足で踏んづけて割ってあげ、物陰に隠れて様子をうかがうと、割れたクルミを食べにやってきた。


カラスは頭がいいというけど本当だね。人が通るのを見て割ってくれることを期待したのなら、さらにすごいけどね。

〈頭のいいカラス〉

〈頭を雲の上に出す富士山〉
 
〈武田信玄が治水に使用した十六石というが・・・〉

〈韮崎から続く七里岩〉
 
〈雰囲気の良い旧道 立派な家が多い〉
 
〈神明宮と南無阿弥陀仏碑〉

〈田んぼと富士山〉

〈この辺りは火の見やぐらが異様に多い〉
 
〈釜無川と富士山 桐沢橋を渡る〉

〈七里岩の向こうに八ヶ岳が見えてきた〉
七里岩

 韮崎から七里(28km)も続く七里岩は、25〜20万年前に富士山ほどの高さのあった現在の八ヶ岳連峰の最高峰「古阿弥陀岳」が大規模な山体崩壊を起こし、甲府盆地を覆い尽くして広がり、御坂山地のふもとに広がる曽根丘陵にぶつかって止まるまで50km以上の距離を流れ下ったのだという。

その厚さは最大で200mにも達し、日本で起きた岩屑流では最大規模のものだそうだ。今だったら大変だね。20万年も昔のことでよかったね。でも、3.11のこともあるし、油断は禁物だね。

その後、釜無川や塩川に浸食され今のような台地になったのだそうだが、自然の力の偉大さを改めて感じさせる話だね。

〈山梨県立韮崎射撃場〉
 中央高速やJR中央本線を走っていると気づかないが、韮崎から先の新府駅、穴山駅などはこの七里岩の上にあった。中央高速もこの七里岩をトンネルや橋で結んで走っている。

こうして旧街道を歩いて初めて知ることができた。

今歩いている場所には国道20号線が走り、民家もあるが、この低地は釜無川の河川敷なのだ。

〈南沢橋から左の道へ〉

〈折居の集落をゆく〉

〈唐沢集落から見る富士山〉

〈反対側には八ヶ岳が全容を現した〉

〈唐沢橋を渡る喜多さんと富士山〉

〈前方には八ヶ岳〉

〈七里岩を通る中央自動車道 本日のゴール穴山駅もここにある〉

〈徳島堰 寛文5年(1665)から徳島兵左衛門が開墾〉


〈疲れた赤とんぼが喜多さんにしがみつき休む〉

〈雲に浮かぶ富士山〉

〈この八ヶ岳連峰は富士山と同じくらいの高さで同じ姿をしていたのだという〉

〈いつか富士山も噴火してこの姿ではなくなるのだろうか〉

〈本日はここまで 中央本線穴山駅は正面の山の上だ。バスもタクシーもいないから歩く〉

〈七里岩をジグザグに歩いて登ってゆく 中央自動車道は頭の上〉
 このあたりが一番どこで歩くのをやめるか判断に苦しむところだ。中央本線は七里岩の上を走っているし、旧甲州道中は川のそばを通っている。どこも駅まで遠い。

穴山駅から甲府駅まで戻るために七里岩の上まで歩くと、光って見える川の向こうが旧甲州道中だ。かつてはこの広大な平地が七里岩と同様に八ヶ岳連峰から流れ出た岩屑流で覆い尽くされていたのだそうだ。

それが20万年の歳月を経て、このような地形になったというのだから、言葉も出ないね。

本日は、甲府駅前の「東横イン」に予約してあるので、400円かけて戻るのだが、1時間に2本程度しかない普通電車に間一髪間に合った。

〈下界を見下ろす 釜無川の浸食跡〉
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