〈11日目〉 平成23年10月29日 土曜日 晴れ 鶴瀬宿〜勝沼宿〜石和宿
4ヵ月ぶりの甲州道中

 6月に笹子峠を越えて以来4ヵ月が経ってしまった。本当は10月15日〜16日に続きを歩く予定で
ホテルも予約したのだが、土日とも雨マークになってしまったので2週間延期することにした。

それにしても今年の夏も暑かった。夏休みは8月3日から3泊で喜多さんと娘と3人、伊勢神宮から
那智の滝、高野山へと日本のパワースポットを巡る旅をしてきた。しかし、そのすぐ後で台風12号
と15号が紀伊半島に甚大な被害をもたらした。車で通った道がとんでもないことになっている。
今年は3月11日の大震災と原発事故があったから少し感覚がマヒしている部分があるが、紀伊半島
の被害もとんでもない大災害だ。


世界はギリシャの経済危機に端を発して、欧州全体が困ったことになっているし、日本の輸出産業
は円高で苦しんでいる。もう少し若いころには、未来はすこしづつ良い方向に発展していくのだろう
と楽観していたが
とんでもないことだ。そんな中、多少余裕の出てきた弥次さんは、旧街道歩きに
加えて、昔とった「杵柄」ならぬ「ギター」をもう一度合奏で弾きたいと思うようになってきた。
高校から大学にかけての「マンドリンオーケストラ」での合奏は自分の人生の大きな糧になっている。
ということで、横浜プレクトラムソサエティオーケストラに入団させてもらい、月に一度の合奏練習
に行くことになった。また街道歩きに行く回数が減ってしまうが、頑張って続きを歩くことにする。
甲斐大和駅からスタート

〈甲斐大和駅で降りる人は多いがほとんどハイキングの人だ

〈前回も立ち寄った諏訪神社 ここは甲州道中ではない〉
 朝7時半に磯子駅を出発して、甲斐大和駅に着いたのは10時半だ。ちょうど3時間電車に乗って、前回歩き終えた甲斐大和駅に降り立った。この駅で降りる人は多い。前回電車の中で声をかけられた会社の女性がハイキングをスタートしたのもこの駅だった。甲斐高尾山のハイキングコースが人気のようだ。

しかし、弥次喜多道中の方向に歩く人は一人もいない。駅前でタクシーの運転手さんが乗ってくれる人を待っているが、みんなハイキングに来ているのだ。タクシーには乗らないだろう。

〈鶴瀬関所跡〉
古跡 金岡自画地蔵尊碑

 『この地は絵画の巨匠巨勢金岡遊歴の際、岩面に地蔵尊を画いたところです。今は水害に会い岩角崩れ当碑のみなり』と説明があるが、中山道番場宿の蓮華寺の宝物に、やはり「巨勢金岡」の「観経曼荼羅」が展示してあった。

巨勢金岡(こせのかなおか)は、平安時代の宮廷画家で貴族の出身であったが、その豊かな才能を朝廷に認められ、宇多天皇や藤原基経などの権力者の恩顧を得て活躍した。貞観10年(868年)から同14年(872)にかけては宮廷の神泉苑を監修し、その過程で菅原道真や紀長谷雄といった知識人とも親交を結んだ。(ウィキペディアより抜粋)のだそうだ。

〈古跡 金岡自画地蔵尊碑〉

〈甲州道中 鶴瀬本陣跡〉

〈大きな常夜灯が残っている〉
 このあたりはほとんど国道20号線を歩くしかないのだが、ほんの少し旧道が残っているところがある。そのようなところには、このように常夜灯が残っていたりするが、甲州道中ではほとんど見ることはない。

今回は、甲府の先の竜王駅まで歩く予定だが、途中の「石和温泉」で一泊する。石和温泉のある笛吹まで14km、甲府まで21kmの表示が見えるが、数年前ならとても歩く距離には思えなかったことだろう。

〈甲府まで21km〉

〈国道20号線沿いにはリンゴの木も・・・〉
古跡 鞍懸

 『この地は逃亡する長坂長閑が土屋惣蔵に追われ、落ちた鞍が路傍の桜の木にかかっていたところといわれています。』長坂長閑(ながさかちょうかん)とは、どのような人なのか調べたら、戦国時代の武将で、実名は光堅、武田信玄・勝頼父子に仕えた人らしい。

勝頼が長篠合戦で大敗した後、跡部勝資と並んで勝頼に重用されたというが、「甲陽軍鑑」での評判は芳しくなく、武田家を滅亡に導いた佞臣とされている。武田家の滅亡に際し、信長により甲府で誅されたといわれる。
その古跡の案内板もご覧のありさまだ。予算がないのか、やる気がないのか。

〈洞門があった〉

〈その洞門を左の道に入る〉

〈長坂の吊り橋とあるがご覧の有様〉

〈雰囲気はあるが朽ちてしまって通れない クルミの実がたくさん落ちているので喜多さんはさっそく拾う〉

〈洞門からブドウ畑が見えてきた〉
勝沼のぶどう畑

 勝沼ぶどう郷を歩くときには、ぶどうの季節がいいとは思っていたが、まさか本当に秋のこの季節になるとは思っていなかった。

3月11日の震災で、歩くペースが落ちてしまって、たまたまいい時期になってしまったが、洞門から見えるぶどう畑はもう収穫がすっかり終わっているようだ。この先でぶどう園があったら買って母親に送ってあげようと思っているのだが、残っているのだろうか。

〈ぶどうの収穫は終わっているみたい〉

〈大和のモニュメント〉

〈近藤勇には見えないが近藤勇の像〉
近藤勇 柏尾古戦場

 『明治元年(1868)3月6日、近藤勇率いる幕府軍と板垣退助率いる官軍の先鋒隊がこの地で戦った 勝沼町教育委員会またも近藤勇が出てきた。東海道藤川宿の法蔵時で近藤勇の首塚にお参りしたが、その新選組の局長はこの柏尾の戦いの後、流山で捕えられ中山道板橋宿で処刑された。官軍の勢いに恐れをなし、300人いた幕府軍は逃散するもの続出で121人まで減っていたという。戦いは1時間ほどで官軍の勝利に終わった。

今は石畳になっているこの道が旧甲州道中のようだが、この先の橋はなくなっている。この戦いで焼かれたと案内に記されてあった。

〈近藤勇 柏尾古戦場〉

〈近藤勇と板垣退助の柏尾戦争を伝える資料〉

〈旧甲州道中の両脇には柏尾戦争を伝える資料が展示してある〉

〈元の橋がかかっていたところ 今は通行できない〉
 それにしても、近藤勇は街道歩きを始めてからその名をあちこちで目にする。長州側からすれば恨み骨髄の人物ではあるが、江戸幕府側からすれば腰抜け揃いの旗本が多い中で、頼もしく映ったことだろう。

自分がその時代のさなかに置かれたらどうであったろう。尊王攘夷思想はよくわかるので、やはり近藤勇と戦う立場だったかもしれない。今のTPP問題はどうだろう。260年の鎖国を続けた江戸幕府の一部の体制側の利益のみを考えていたら、その後の日本はなかったことだろう。それぞれの立場で利害は対立するが、農業も世界で戦っていくしか道はないのではないだろうか。

〈現在の柏尾橋を渡る〉

〈道の両側にぶどう畑が広がり始めた〉
葡萄薬師 国宝 大善寺

 大善寺は、養老2年(718)行基菩薩が日川渓谷岩上で霊夢により感得された像−右手にぶどうを持ち左手で結印した薬師如来と日光・月光菩薩の薬師三尊−を刻み安置して開かれたと伝えられるそうだ。

甲州のぶどうは昔から有名だが、ぜいぜい明治期にヨーロッパから輸入され栽培が始められたのかと思っていた。なんと1300年も前からこの地ではぶどうが栽培されていたそうなのだ。ちょっとびっくり。でも、考えてみれば奈良東大寺の正倉院御物にはぶどうのデザインが残っているし、ワインは数千年前から作られていたようだ。シルクロードを経てこの地にぶどうがもたらされたのかもしれない。

〈国宝ぶどう寺 大善寺入口〉

〈この寺では約6,000円で宿泊もできる〉

〈県指定文化財 りっぱな山門〉

〈表参道と楽屋堂〉

〈関東で最も古い建造物 大善寺本堂(薬師堂) 中の国重要文化財「十二神将立像は一見の価値あり〉
ぶどう園でぶどうを購入

 もうシーズンも終わりかと心配していたら、ぶどう狩り食べ放題の看板が見えてきた。さっそく立ち寄ってみる。お皿に何種類かの試食ぶどうを出してくれたので、食べてみるとこれがなんとうまい。これはやはり母親に送ってやらねばと下の写真の詰め合わせを送ってあげることにした。

すると喜多さんが、あげるばかりではつまらない、家でも食べたいと言うものだから自宅にも同じものを送ることにする。歩きながら食べるぶどうも欲しいと言う喜多さんの言葉を聞いて、店の女性が一房サービスしてくれた。とにかく甘くて手がべたべたする。

〈食べ放題のぶどう棚と購入した詰め合わせ〉

〈ワイン民宿 鈴木園〉

〈本陣 槍懸けの松〉

〈古い家並みの残る勝沼宿甲州道中〉

〈国の登録有形文化財 田中銀行博物館〉

〈案内のおばあさんが聞かせてくれた蓄音機〉

〈局長?の机 意外と小さい〉

〈戦時中北白川宮が疎開されていた時の箪笥 葵の御紋がある〉

〈今でも住めそうな部屋〉
旧田中銀行社屋  国登録有形文化財

 藤村式建築の流れをくむ建物。明治30年代前半に勝沼郵便電信局舎として建てられた伝承をもつ入母屋造り、瓦葺、二階屋の建物で、大正9年より昭和7年ごろまで山梨田中銀行の社屋として利用された。

 外壁の砂漆喰を用いた石積み意匠、玄関の柱や菱組天井、二階のベランダ、引き上げ窓、彩色木目扉、階段などに凝洋風建築の名残があります。また、建物の背後には銀行時代に建てられた扉に「山梨田中銀行」の名が鮮やかに残るレンガ外装の土蔵があります。
勝沼町 教育委員会

〈しゃれた外観〉
 見学させてもらおうと上り込むと、留守番のおばあさんに歓迎された。めったに見学客は来ないのだろう。
それでも訪名帳に書いてくれというから見ると本日3番目のお客さんのようだ。家中を案内してもらい、蓄音
機もかけて聞かせてくれた。意外とよい音で大きな音が出るのでびっくり。お茶とお菓子をいただいて、
ゆっくりと話をしたがいい休憩になった。このおばあさんは83歳だそうで、こんなボランティアをできる
ほど元気で結構なことだ。

〈勝沼宿で最も急な坂 ようあん坂碑〉

〈これが勝沼宿で最も急な坂らしい〉

〈ワイナリー白百合醸造 試飲をしてワインと干しブドウを購入〉
大宮五所大神のクロマツ

 街道から右に少し入ったところに、大きな松が見えたので行ってみると、境内には市指定の天然記念物のクロマツがあった。

根回り3.25m、樹高12mという立派な松
だ。

〈大宮五所大神参道〉

〈大宮五所大神のクロマツ〉

〈日川から笹子峠方面を振り返る あの山を越えて歩いてきた〉
 日川の土手から振り返ると、笹子峠方面が見える。このあたりは日本橋から126kmくらいの距離だが、東海道だと静岡県原宿あたり、中山道だと群馬県松井田宿あたりだ。それぞれに歩いてきた風景が脳裏によみがえる。

道のすぐわきのぶどう棚にはおいしそうなぶどうがたわわに実る。街道歩きは本当に楽しいね、と思える瞬間だ。

〈おいしそうなぶどうがたわわに実る〉

〈日川橋を渡る〉

〈甲府・石和方面は右に〉

〈甲州桃太郎街道とあるがなぜ桃太郎?〉

〈笛吹橋まで歩道がない〉

〈笛吹橋を渡る 向井はもう石和温泉郷東入口〉
笛吹権三郎

 今から六百年ほど昔、芹沢の里に権三郎という若者が住んでいた。彼は鎌倉幕府に反抗して追放された日野資朝一派の藤原道義の嫡男であったが、甲斐に逃れたと聞く父を母と共に尋ね歩いてようやくこの土地に辿り着き、仮住まいをしている身であった。彼は孝子の誉れ高く、また、笛の名手としても知られており、その笛の音色はいつも里人の心を酔わせていた。
 

〈松並木が残る〉
   
 ある年の秋の夜のことである。長雨つづきのために近くを流れる子西川が氾濫し権三郎母子が住む
丸木小屋を一瞬の間に呑み込んでしまった。若い権三郎は必死で流木につかまり九死に一生を得たが、
母親の姿を見つけることはついにできなかった。悲しみにうちひしがれながらも権三郎は日夜母を探し
求めてさまよい歩いた。彼が吹く笛の音は里人の涙を誘い同情をそそった。しかし、その努力も報われ
ることなく、ついに疲労困憊の極みに達した権三郎は、自らも川の深みにはまってしまったのである。
変わり果てた権三郎の遺体は、手にしっかりと笛を握ったまま、はるか下流の小松の河岸で発見され
同情を寄せた村人の手によって土地の名刹長慶寺に葬られた。
 権三郎が逝ってから間もなく、夜になると川の流れの中から美しい笛の音が聞こえてくるようになり、
里人たちは、いつからかこの流れを笛吹川と呼ぶようになり、今も芹沢の里では笛吹不動尊権三郎と
して尊崇している。これが先祖代々我が家に伝えられている権三郎にまつわる物語です。
昭和六十年五月吉日
山梨県山梨市七日市場四九三番地  長沢房子(旧姓広瀬)
   

〈笛吹権三郎の像 笛吹の地名の由来〉

〈レトロな映画館 テアトル石和〉

〈丸石の道祖神〉

〈遠妙寺の仁王門〉
石和温泉

 かつての石和温泉は、どちらかというと男主体の社員旅行で来る遊興歓楽温泉というイメージだったように思う。今から30年近く前に喜多さんも社員旅行できたというし、弥次さんも20年近く前に社員旅行できた。今は社員旅行という言葉も死語になっているが、かつては老いも若きもバスに乗って大騒ぎしながら社員旅行をしていたものだ。

社員旅行では人を呼べないから、石和温泉も家族旅行主体に切り替えているようだが、今も芸妓を呼ぶお客さんがいるのだろう。青砥家という芸妓置屋の看板があった。

〈芸妓置屋 青砥家〉

〈石和本陣跡碑〉

〈アラビア石油社長などを歴任 小林中氏銅像〉
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