〈六日目〉 平成19年 1月13日 土曜日 晴れ 平塚宿〜大磯宿
【第7次 平塚宿 高麗山は今も昔もこんもりと丸い】

〈平塚・縄手道 江戸より7番目の宿〉
高麗山

 今日は、平塚の母親の家まで車で行って置かせてもらい、喜多さんと二人で歩き始める。


平塚と大磯の間にあるの象徴的な形の山は「高麗山(こまやま)」という。
麓には高来
(たかく)神社もある。字を見ればもとは高麗の字が使われていたことは一目だ。江戸時代までは高麗寺もあったそうだが、明治の廃仏毀釈で高麗神社だけが残り、高来神社に改名された。

7世紀に滅亡した高句麗からの亡命した王族が、このあたりに定住し神社を建立してこの名を付けたと言われている。

広重の絵にあるように、平らな土地にぽっかりと丸い形の山がお供えしてあるようだ。

〈現在の高麗(こま)山〉

 まず平塚駅の近くの「お菊塚」を訪ねる。

お菊塚

 伝承によると、お菊は平塚宿役人真壁源右衛門の娘で、行儀作法見習いのため江戸の旗本青山主膳方へ奉公中、主人がうらむことあって菊女を切り殺したという。
この事件は元文5年(1740)2月の出来事であったといい、のちに怪談「番町皿屋敷」の素材となった。
死骸は長持詰めとなって馬入の渡場で父親に引き渡された。この時父親は「あるほどの花投げ入れよすみれ草」と、絶句したという。
父親は刑死人の例にならい墓をつくらず、センダンの木を植えて墓標とした。
  〈平塚市観光協会〉

今からすればとんでもないことだが、当時は人の命はこんなにも軽かったのだ。

〈お菊塚〉
平塚のいわれ

 見附跡や、問屋場跡を見ながら、平塚の地名になったという「平塚の塚」に着く。
平塚の地名の言われは、桓武平氏の祖、平真砂子がここで没したため、ここに塚を築いて弔ったことによる。

そのため、平塚はもとは「たいらつか」と呼ばれていたそうだ。

平塚のはずれの、喜多さんがお薦めの「車屋」で天ざるを食べた。
アナゴの天ぷらが丸々一本ついた豪快な天ざるであった。

〈平塚宿高札場跡〉
【第8次 大磯宿 明治時代には避暑地として政府高官・文人などの別荘が並んだ】

〈大磯・虎ヶ雨 江戸より8番目の宿〉
大磯の松並木

 大磯は、昔から気候温暖、風光明媚で別荘地として名高い。

伊藤博文や吉田茂が別荘を構えていたし、島崎藤村や新島譲はこの大礒で終焉を迎えている。

現在の大磯もやはり瀟洒な家が立ち並ぶちょっと気取った感じの街だ。

喜多さんはこの大磯の高校に通っていたのだが、さすがに平塚から歩いたことは一度もないという。

江戸時代から続くであろう松並木を見上げながら感慨深そうに歩くのであった。

〈大磯の松並木〉
鴫立庵

街道沿いには、島崎藤村の別荘がそのまま保存してあって、墓もあるらしいのだが、地図を持たない弥次喜多は場所が分からず通り過ぎてしまった。

街道の左手にある西行の

「心なき身にも哀れは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ」

で有名な「鴫立庵」に立ち寄る。

この「鴫立庵」は、本物の弥次喜多も「東海道中膝栗毛」の中で立ち寄っっている。


〈鴫立庵〉
 実は、平塚からそう歩いていない虎御前の化粧井戸を見たあたりで、ふくらはぎが痛くなってきていた。
途中の薬局でエアサロンパスを購入する。

今日は、先日鳥浜のアウトレットで買ったウォーキングシューズをはじめて履いてきたのだった。

やはり、長時間歩くときになれない靴は履くものじゃない。
 国府新宿あたりのファミレスでコーヒーを飲んで一休みしたが、二宮まで来たところであっけなくダウン。この日は8キロくらいしか歩いていない。

この先、一日30キロ歩いた日もあるというのに。なんともひ弱な弥次喜多道中であった。

〈こんな家も残っている〉
目次
inserted by FC2 system