〈五日目〉 平成19年 1月7日 日曜日 晴れ 風強し 藤沢宿〜平塚宿
 
   
 【第6次 藤沢宿 遊行寺の門前町として、また江ノ島や鎌倉、大山への参詣の拠点として賑わった】
   
 
〈藤澤・遊行寺 江戸より6番目の宿〉
   
 遊行寺と白旗神社

 今日は一人で藤沢駅から遊行寺近くまで歩き、平塚宿を目指す。

喜多さんは地元だし、見所の少ないところは歩きたくないというわがままな相棒なのであった。

〈遊行寺の参道〉
   
 広重の描いた「遊行寺」の手前にある鳥居は、遊行寺の鳥居ではなく、江ノ島に向かう道をしるした鳥居であるらしい。

東海道中膝栗毛にも、江ノ島に詣でるおじいさんに喜多さんが道を聞かれて脱線ばかり、おじいさんは怒って「他の人に聞きますべい。」と行ってしまう場面が出てくる。


実は、平成21年12月20日に喜多さんと、藤沢宿〜平塚宿を歩きなおした。「街道は歩きたし、中山道は遠し」というところで3年前には一緒に歩かなかった宿を再度歩くことにしたのだ。3年前には旧街道歩きもまだ数回目で、見どころも押さえていなかったし、歩きなれてもいなかった。今回はそういう意味で違う東海道藤沢宿が見られることだろう。
だから撮り直した写真も追加することにした。

白旗神社の石段を上がると、「源義経公鎮霊碑」がある。

〈白旗神社〉
   
 源義経公鎮霊碑

 文治5年(1189)閏4月30日、奥州平泉、衣川の高館で藤原泰衡に襲撃された義経公は自害し悲壮な最期を遂げた。その御骸は宮城県栗原郡栗駒町の御葬礼所に葬られ、また一方の御首は奥州路を経て、同年6月13日腰越の浦の首実検後に捨てられたが、潮に逆流し白旗神社の近くに流れ着き、藤沢の里人により洗い清められて葬られたと語り伝えられる。

本年源義経公没後810年を記念し、両地融資の方々により「御骸」と「御首」の霊を合わせる鎮霊祭を斉行し、茲に源義経公鎮霊碑を建立する。


              
平成11年6月13日  白旗神社

〈源義経公鎮霊碑〉
   
 義経伝説は、この先の東海道であちこちに出てくる。

三島宿の黄瀬川のほとり、長沢八幡宮では平家追討の兵を挙げた頼朝に、奥州から駆けつけた義経が初めて対面したという「対面石」があったし、池鮒鯉宿では義経を慕い追いかけてきた「浄瑠璃姫」伝説の残る「誓願寺」があった。

しかし、2年前に藤沢宿を歩いた時にはそんなことは思いもよらず、「へ〜、こんな所に義経の首が流れ着いたとはね〜。」という程度の感想しかなかった。 
しかし、さすがにこのあたりは、義経にまつわる遺跡が多い。
日本の英雄とでも言うべき義経の首がこのようなところに葬られていたことは、今回歩いて初めて知った。
義経首洗い井戸の説明を読んでみると・・・

〈白旗神社本殿〉
   
 伝 義経首洗い井戸

 「吾妻鏡」という鎌倉幕府の記録によると、兄頼朝に追われた義経は奥州でなくなり、文治5年(1189)に藤原泰衡から義経の首が鎌倉に送られてきました。義経の首は首実検ののち腰越の浜に捨てられました。それが潮に乗って境川をさかのぼり、この辺に漂着したのを里人がすくいあげ清めた井戸と伝えられます。

先ほどの白旗神社とわずかしか離れていないのに、表現が微妙に違うところが面白い。

〈義経首洗井戸と覗き込む喜多さん〉
   
 義経首塚

 前にスペインに旅行したとき訪れた教会に「コロンブス」の墓があった。4人の従者に担がれたひつぎに遺骨が入っているのだそうだ。

コロンブスは、航海の途中で南米で亡くなり、遺体は現地に葬られた。スペインは何百年かの後、その遺体を掘り出し、本物だという遺伝子調査までして、本国に持ち帰ったのだそうだ。

日本人にはない遺体に対する執念を感じさせる話だ。
欧米人は戦争で亡くなった人も、なるべく破損した遺体をかき集め修復して遺族に渡さなければ納得しないという。

首を切られた義経は、欧米の感覚でいえば成仏できないところだろう。

〈義経の首塚〉
   
 街道を歩くときの常で、昼御飯は重要な問題だ。
できたらその土地の名物を食べたいが、名物どころか食事する店がないところも多い。

しかし、久しぶりの東海道はおおむね今も大都会の道を歩くところが多いので、食事をするには困らない。

今回は喜多さんの「トマト鍋」を食べてみたいというリクエストがあったが、そんなに都合よく珍しいメニューを提供する店はない。
だから、今回は珍しく洋食だ。その先に東海道のラーメン「街道や」という店があったが、横目で見て通り過ぎる。

〈東海道ラーメン 街道や〉
   
 前回は道路の右側を歩いたため、この「おしゃれ地蔵」を見逃してしまっている。

おしゃれ地蔵

「女性の願い事なら何でもかなえてくださり、満願のあかつきには、おしろいを塗ってお礼をする。」と伝えられており、今でもお顔からおしろいが絶えることがないという。そのような所から、誰からともなく「おしゃれ地蔵」と名付けられたとされる。
形態的には「地蔵」ではなく「道祖神」(双体道祖神)の表現が妥当であると考えられるが、土地の言い伝えを大切にしていきたい。

平成7年12月 藤沢市教育委員会

 〈おしゃれ地蔵〉
   
 このような都心に近いところで、女性の願い事なら何でもかなえてくださるお地蔵さんが鎮座されているということは、女性にとって非常に心強いことだろうが、おしろいよりもはみ出た口紅がやたら目立っているのであった。

おしゃれ地蔵の向かいには、近代的な「メルシャンワイン」の大きな工場があった。大きなタンクからはワインの香りが漂ってきそうだ。ワインと言えば、山梨とか長野で作っているのかと思ったら、藤沢にもこんなに大きな工場があった。

〈メルシャンワインの工場〉
   
 今日は快晴だが、風がやや冷たい。

この先で旧東海道は国道1号線に合流する。
相模川を渡るまでしばらくは国道の脇の歩道を歩くことになる。

〈茅ヶ崎市に入った〉
   
 街道を歩いて気になるのは、各地で趣向を凝らしたマンホールの蓋だ。

普段は気にも留めないが、こうして歩いてみると足もとにあるだけに各自治体のセンスの良しあしが見えてくる。

茅ヶ崎市が取り上げたテーマは「エボシ岩」だった。
相模湾に浮かぶ岩礁の形が、「烏帽子」に似ているところから、「エボシ岩」と呼ばれる。

その昔、サザンの桑田佳佑が「チャコの海岸物語」で「エボシ岩が遠くに見える 涙あふれてかすんでる」と歌った、あの「エボシ岩」だ。

〈烏帽子岩のマンホール蓋〉
   
 南湖左富士

 東海道には、二か所だけ富士山が左手に見える場所があり、「左富士」と呼ばれている。
そのうちのひとつがこの「南湖左富士」だ。

もう一か所は、ずっと先の吉原宿にある。

基本的に東海道はひたすら西に向かう街道なので、富士山は右手に見えることになる。
しかし、街道の曲がり具合で、富士山より江戸寄りで北に向かう道筋からは、左手に富士山が見えることになる。

その2か所のうち1か所がこの場所なのだ。

〈南湖左富士からみた富士山〉
   
 史跡 旧相模川橋脚

 今の相模川の手前にある「史跡 旧相模川橋脚」は、非常に興味をそそられる史跡だ。
この橋脚は、大正12年(1923)におきた「関東大震災」の「液状化現象」によって出現したものだそうで、当時水田だったこの場所に、突如太い木の柱が何本も現れたのだそうだ。

調査の結果、この太い木の柱は鎌倉時代にかけられた橋の遺構(橋脚)だったと考証され、大正15年に国の史跡に指定されたのだそうだ。
しかし、面白いものだね。
鎌倉時代と言えば、今から800.年も前のことだ。

昔は川の氾濫で、川筋はしょっちゅう変わっていた。その当時の相模川はこのあたりを流れていたのだろうが、氾濫により橋ごと土砂とともに埋もれてしまったのだろう。

 〈旧相模川橋脚〉
   
 それから700年を経て、関東大震災に揺さぶられて地中から現れた橋脚。

いま、この公園に顔を出している柱はレプリカで、本物は風化しないようにこの池の地下に埋められている。

この橋は頼朝も渡ったかと思うと感慨深いものがある。

現在の相模川は、かつての相模川から数百メートル西を流れる大きな川だ。前方には雄大な富士山も見える。

今回は、3年前に歩いた道中記と、今回の道中記が混在してしまったので、自分でも混乱してしまっているが、とりあえず無事に平塚宿に到着。3年前の疲労困憊に比べて何と丈夫な脚になったことだろう。自分でも感心する。

〈出現当時の様子〉
   

〈現在の相模大橋を渡る〉

〈相模川を渡る東海道本線〉
   
   
   
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