〈三十日目〉 平成20年 2月11日 月曜日 晴れ 大津宿〜京・三条大橋

〈大津走井茶屋 江戸より53番目の宿〉
 昨日に引き続き会社の寮に泊まって、朝食のあと最後の
「歴史と歩く 東海道五十三次の旅」に出かける。

〈大津 荷車のモニュメント〉
 「歴史と歩く」という言葉は、たぶん日本語にはない。

強いて言えば「歴史を歩く」ということになるのだろう。

しかし弥次さんとしては、歴史と一緒に二人三脚でという意味の、東海道の歴史を感じる旅に出たつもりであった。

その旅も今日で最後だ。
達成の喜びとともに、一抹の寂しさを感じる。

〈会社の寮の前を流れる賀茂川〉
 今日は会社の寮には戻らない。

三条大橋まで歩いた後は、新幹線で横浜に帰らなければならないので、着替えや草津で買った「うばがもち」もみんな持って、京都駅のロッカーに預けてから大津駅に向かう。

大津駅を外から見ると、平安時代の王朝絵巻が駅全体に飾ってある。

昨日大津事件碑を見て、日露戦争から太平洋戦争にいたる日本陸軍の勘違いに憤慨した場所まで戻ってから歩き始めた。

〈JR大津駅〉
鮒ずしの老舗 阪本屋

 左に曲がるべきところをまっすぐに行ってしまったおかげで、阪本屋という鮒寿司の老舗に出合った。喜多さんは是非買って行きたいという。

弥次さんはどちらかというと、においのきつい食べ物や、珍味といわれる食べ物に弱い。弱いというのは、文字通り食べられないという意味で、目がないという意味ではない。

しかし、喜多さんは珍しいものならとりあえず食べてみたいという性格なので、小ぶりの鮒寿司を買うことにする。大きいのは本当にびっくりするくらい高いのだ。1匹で10000円以上する鮒寿司もあった。

弥次さんはついに一切れも食べなかった。

〈鮒寿司の老舗 阪本屋〉
京阪電車

 道路を電車が当たり前のように走りすぎてゆく。京阪電車だ。

路面電車の車両という感じではなく、普通の電車が道路を走ってゆくようだ。
車を運転する人からすると電車に接触しそうでちょっと怖いが、この辺の人は慣れっこになっているのだろう。

この電車は、しばらく旧東海道と平行して走る。

〈道路を走る京阪電車〉
花登筐生家

 道を間違えて鮒寿司の阪本屋の先まで行ってしまったが、何やら石柱が立っている家がある。なんだろうと思ってみると、「花登筐
(はなとこばこ)の生家」とあるではないか。

道を間違えて思わぬ家を見つけてしまった。花登筐といえば、「細腕繁盛記」。

銭の花の色は清らかに白い。だが蕾は血のにじんだように赤く、そのかおりは汗のにおいがする。というナレーションで始まる名ドラマであった。

「加代、犬にやる飯はあっても、おみゃーにやる飯はにゃーだで」と、憎々しげにいう富士真奈美に、新珠美千代演じる加代のファンはますます増えるのであった。

〈花登筐の生家があった〉
 1970年の放送というから、弥次さんが中学3年生のころのドラマだ。このころはこのような名ドラマは、一家そろってテレビの前に集合してみていた。

家族が多かったから、大きなコタツに6〜7人が座って見ていたのだろうと思う。全員がそろえば9人家族であった。中学3年のときに祖母が90歳で亡くなり、あとを追うように祖父も95歳で亡くなった。5人兄弟姉妹であったから、それでも7人の家族だった。

今は我が家では、子どもたちが親と一緒にテレビドラマを見ることはまずない。そもそもテレビを見ることがほとんどない。
インターネットやDVDで、テレビは若者を引き付けなくなった。

〈逢坂の関をめざして〉
 JRのトンネルがレンガつくりで美しい。
明治に作られた建造物の多くは、このように当時は高価であったであろうレンガを使って作られたものが多い。

この逢坂山トンネルも、横浜の赤レンガ倉庫も、江田島旧海軍兵学校も、それぞれ今に残るすばらしい建築物だ。

おととし、江田島に行ったとき教わったのだが、江田島の旧海軍兵学校の校舎のレンガは、イギリスから一つ一つ包装されて送られてきたという。
レンガ一個の値段は、職人の日当に相当するくらい高かったらしいが、今でもまったく色あせてなく美しい。

〈明治時代に作られたレンガのトンネル〉
  
〈蝉丸神社 鳥居が途中で折れている〉
蝉丸神社

 蝉丸神社があった。

東海道を歩いたほかの人のHPには、赤い鳥居があったはずだが見あたらない。
石段を上って見れば途中でポッキリと折れて、上半分がなくなっている。
それでもとりあえず最後まで上って参拝する。

これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関

いわずと知れた蝉丸の詠んだ歌であるが、この歌は岩国の母親が好きでよく口ずさむのを聞いていた。    

〈弘法大師堂〉

〈逢坂山関跡碑と常夜灯〉
逢坂山関跡

 弘法大師堂を過ぎて、その逢坂山跡の石碑が見えた。
となりの常夜灯は寛政6年(1794)に建てられたという。

いにしえの逢坂山は、さまざまな歴史を見てきたことだろう。
この峠を越えればすぐに京である。

峠にうなぎで有名らしい「かねよ」という店があったが、まだ昼食時でもないので通り過ぎる。
 雪かきをしていない道路は、このように雪が凍って歩くのが怖いくらいだ。
この坂を下れば、12月に鈴鹿峠を越えて入った滋賀県を抜け、いよいよ「東海道五十三次」終点の地、京都府に入る。

凍った道路ですべらないよう足元に神経を集中させながら、快調に逢坂山を下ってゆく。

〈凍った逢坂山を下る〉
 国道一号線の標識に「487」とある。

日本橋から487kmを歩いてきた。
三条大橋までは495kmだから、あと8km。
あと8kmでゴールとなる。

車では10分くらいあれば着く距離だが、歩くとあと2時間はかかる。
でもその2時間がいとおしい。

〈日本橋から487km〉
  
〈月心寺 走井〉
走井餅本家跡

 下り坂の途中に民家風の「月心寺」があったので、勝手に入ってみることにする。
「走井」の説明板があったので、喜多さんともども読んでみる。

文字が消えかかっていてよく読めないが、

この名水は第十三代成務天皇ご誕生時産湯に用いられたと伝えられる。
安永年間スウェーデン人ツンベルブが江戸に赴いた紀行に、どんな小さな茶屋にも
いつも米で作った白か緑の小さな菓子がある。旅人や車夫はこれを買って茶とともに食べる。
茶はいつも飲めるように用意されている。
と記されている。
関の清水走井などの清冽な水でたてられた茶とともにとったのがその菓子の名のおこりである。

走井のかけひの水のすずしさに越えもやられず逢坂の関
 〈大津市観光課〉

元祖走井餅本家跡碑の由来であろう。
白か緑の米で作った菓子とは、白い餅と草餅のことで、外国人には菓子に見えたのだろうが、
日本人の感覚では菓子ではなく主食に近い。
いまはこの場所には、その餅も食べたくとも売っていない。
【京 三条大橋 本当に歩けるとは思っていなかったけど・・・】
いよいよ京都市

 「みき京みち」の石柱のとなりに、京都市と大津市の境の表示があった。

普通多くの県境は、小さくとも川があったりするものだが、ここではごくあっさりと、京都市に入ってしまう。

いよいよ京都府まで歩いてきた。
一年前に歩き始めたときには、本当に歩いてこれるとは思っていなかった。
ここまで続けてこれたのは、喜多さんや子どもの協力もあるが、それより何より歴史を訪ねながらの旅が面白かったからだろう。

〈滋賀県と京都府の境〉
 京都市の看板がさりげなく表示されているが、この左の家などはかなり微妙な位置に建っている。

どうみても京都市と滋賀県大津市にまたがっているように見える。
固定資産税はどうするのだろうか。
自動車税はどちらに払うのだろうか。

京都市に入ったとたんに車のナンバープレートも京都になったから、目に見えない線がきっちり引かれているのであろう。

〈京都市に入った〉
   
             〈京都の街道を行く〉                          〈亀水〉                         〈粟田口の手前の東海道〉
亀水

山科の駅を過ぎ、右に天智天皇陵入り口の表示や日時計があるところから、左に折れ細い坂道を上ってゆく。

かなりの坂道で、喜多さんがリュックを持ってくれというので、じゃんけんで負けた小学生のように
リュックを二つ背負って坂道を上って行くと、左手に亀が水を吐いているところがあった。
文字通り「亀水」というらしい。

この「日の岡峠」の亀は、江戸時代からこうして旅人ののどを潤したのであろう。
しかし、現代の弥次喜多は出自のわからない生水は飲まないのであった。
蹴上

 峠を上りきったところに、俵を積んだ荷車のモニュメントがあった。

広重の絵に牛に引かせた荷車と走井茶屋が出てくるが、それをイメージしたものだろうか。
外国人のカップルが、地図を見ながら困った顔をしていたが、まさか東海道を旅しているわけでもあるまい。

〈俵を積んだ荷車〉
粟田口刑場跡

 左手の粟田口の刑場跡を過ぎるとあとは下り道になる。

品川宿の鈴ヶ森刑場跡、見附宿の鈴ヶ森刑場跡も通って来たが、どの刑場跡も霊気が漂っていそうであまり長い間いたくない。

前方の道路標識に「三条大橋」の文字が見えてきた。

〈三条大橋の標識が見えてきた〉
 この先を左に行くと三条大橋だ。

ついに着いてしまうのか。
この先、何を目標に生きればよいのか・・・
というような、大げさな話ではないが、歩いてしまえばあっけないものだ。
何ごともやがては大団円を迎えるということだ。

〈この先を左に行けば三条大橋〉
  
〈もうすぐ三条大橋〉                                                              〈三条大橋が見えてきた〉
高山彦九郎

 東海道を歩いた人のゴールに必ず出てくる「高山彦九郎」の像が、三条大橋の手前にあった。

高山彦九郎は、延享4年(1747)上野の国(今の栃木県太田市)に生まれ、林子平、蒲生君平とともに「寛政の三奇人」と呼ばれた。
13歳のときに「太平記」を読んだのをきっかけに勤皇の志をもち、18歳で遺書を残して家を出て、各地の学者、思想家と交わる。

吉田松陰はじめ幕末の志士と呼ばれる人たちに多くの影響を与えたといわれる。
この像は、その姿から土下座をしているように誤解されがちだが、皇居を遥拝しているところだ。

〈高山彦九郎の像〉
 徳川260年の間に、朝廷の力はまったくなくなった。
徳川幕府は、自家のみの繁栄を続けるために、天皇家からも土地や権限を奪い、ほかの大名家からも反抗する力を奪うために、莫大な費用のかかる参勤交代や奥方の江戸住まいを義務付けた。
城の普請や、大名同士の結婚も許可なくこれを行えば改易ということになった。

その代わりに260年間の太平という、世界史上まれに見る平和な時代を築きあげた。

高山彦九郎は、天皇家がないがしろにされ、徳川家という一大名が日本国の統率者となっていることに我慢できなかったのだろう。
彼が割腹自殺をしてから約75年後に、明治維新により天皇を中心とした国家に生まれ変わったが、彼が描いたような日本になったであろうか。

〈鬼気迫るものを感じる

〈京師 京都三条大橋〉
三条大橋に到着


 一年と一ヶ月半かけた、東海道を歴史とともに歩く旅も終わった。

喜びと達成感で涙の一つも流さなければならないところだが、意外なほどに気分は平静だ。

日本橋を出てからの宿場宿場の風景が脳裏をめぐる。

〈京都三条大橋の上で〉
 周りを歩いている人は、この赤いリュックを背負った二人が平成の弥次喜多道中を重ねて、30日間かけて東京から歩いてきたとはまず思わないだろう。

それでいいのだ。

これはあくまで個人の趣味嗜好の問題で、のぼり旗をたててアピールするようなことではない。

〈やっと三条大橋に着いた〉
 だから、歩くときの服装もいかにも街道を歩いていますという格好は避けて、地元の人がプラプラと散歩してますという格好で歩いている。

賀茂川のほとりの「弥次喜多像」の前で、弥次喜多の記念撮影をしてもらう。
若いあんちゃんが、ギターをかかえてライブを始めそうだったので、その前に頼んで撮ってもらった。

〈弥次喜多像の前で〉
 長い間会社の机の前に飾っていた、東海道五十三次てぬぐいも、最後のお役目で一緒に写した。

街道の整備に力を入れている街、まったく無視を決め込んでいるように見えた街。
いろいろあったが、無事に終点にたどり着くことができた。

〈ついにたどり着いた〉
 歩道がなくて怖い思いをしながら、猛スピードで通り過ぎるトラックのすぐそばを歩いたこともあった。
道を間違えて、1km以上後戻りしたことも何度もあった。
地元の人に励まされたこともあった。
消滅した東海道もあった。
国道しかなく、排気ガスまみれで歩くしかないところもあった。
松並木にいやされながら歩けた素晴らしい道もあった。
地元の人が手作りの標識を掲示してくれて助かったところもあった。

この三条大橋というゴールがあったからこそ、朝4時起きというハードなスケジュールで歩くことができたのだろう。

〈賀茂の流れに〉
東海道

日本武尊のむかしから、この道は人が歩いてきた。
この道を人が歩かなくなったのは、鉄道が施設されたほんの100年前からのことで、
大きな川を苦労して渡り、絶景の富士山を眺め、人々は歩いてきた。

二時過ぎに乗った京都駅までのタクシーの運転手さんに、「えらいお早い帰りですな」といわれたので、
「3日間さんざん歩いたからもういいよ。東京から歩いて30日間かけて京都に着いたんですよ。」
というと、「えっ?、歩くというと、右足の次に左足を出すあの歩く・・・ですか」とおどろかれた。
ま そこまでおどろかなくてもと思ったけど、「私もホンダのカブか軽自動車をキャンピングカーに改造して
あちこち行ってみたいんですよ。」と運転手さんは言われる。

それももちろん面白そうだけど、歩くスピード、歩く目線でしか味わえない旅もある。

〈これで京都ともお別れ〉
引き続き中山道へ旅立つ弥次喜多・・・

 東海道踏破に先立ち、1月に喜多さんと二人で日本橋から板橋宿まで中山道を歩いてきた。
東海道の感傷に浸るまもなく今度は「中山道六十九次を歩く旅」に出ることになる

最後まで読んでくださった方は、ありがとうございました。

わたしも歩いてみようかな思っていただける方が、一人でもいてくだされば幸いです。

                                                       〈完〉
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