〈二十九日目〉 平成20年 2月10日 日曜日 曇りのち晴れ 草津宿〜大津宿
  
〈雪の残る会社の寮を出発 防寒対策は万全〉
 会社の寮の朝食を一番早い時間にしてもらって、8時前には出発する。
昨日の雪が心配だが、街道歩きに支障がないことを祈ってまた地下鉄で京都駅に向かう。
寮の庭に積もった雪が、こうして眺める分にはきれいだ。
地下鉄の駅まで歩く途中に上御霊神社があったので参拝する。
ずいぶん由緒のありそうな神社で、早朝から神主さんが祝詞をあげていた。
  
〈民家の庭先の天使も雪をかぶっている〉                                            〈上御霊神社〉
草津駅から再スタート

 昨日、雪の降りしきる中を歩いてたどり着いた草津に戻ってきた。

この草津は12月に鈴鹿越えをした時、土山に泊まれなかったから、仕方なく草津のビジネスホテルに泊まったので3回目の訪問となる。

駅前に「うばがもち」の店があるが、昨日食べてみておいしかったので、喜多さんは友達のお土産に是非買っていくという。
喜多さんが店で聞いてみたら、「うばがもち」を売っている店は草津以外にはないという。
これから十数キロメートルを歩くというのに、3箱買ってリュックに入れて歩くのだそうだ。ご苦労さん。

〈草津駅〉
 12月に泊まった草津アーバンホテルを過ぎ、銭湯の草津温泉を過ぎたところにかわいいお地蔵さんがあった。

綿をかぶせてもらって暖かそうだ。

〈草津のお地蔵さん〉
中山道との合流地点


 草津の商店街を抜け、トンネルをくぐると昨日たどり着いた東海道と中山道の合流する地点である。

この道は中山道になる。
またいつか、この道を歩いてくる日が来るのだろうか。

〈草津宿中山道〉

〈東海道と中山道の追分 左中山道美濃路 右東海道〉
時の旅人

 その先に不思議な彫刻があった。
「時の旅人」という表題がついている。

むかし、「タイムトラベラー」という番組で「時間よとまれ!」というのがあったが、そんな感じだろうか。
筒井康隆原作で、原田知代主演の「時をかける少女」という角川の映画になったこともある。

不思議な感覚にとらわれたので、しばし見入る。

〈時の旅人〉
  
〈草津宿高札場〉                       〈草津本陣資料館〉                        〈草津宿街道交流館〉
 トンネルを抜けたところに高札場があった。
中山道との追分を過ぎ、昨日見学した草津本陣資料館を通り過ぎると、もうそこは東海道である。

昨日、江戸時代の旅人に変身した「草津宿街道交流館」を過ぎた先に、和ローソク屋さんがあったので入ってみる。
きれいな絵付けをした和ローソクがあったので、平塚のお母さんへのお土産に1本購入する。
亀山ローソクに比べると、ずいぶん立派なローソクで1本数百円する。
高いのは2〜3000円もする。
「こんな立派なローソクを実際に使うんですか」と店のご主人に聞いたところ、
「このあたりの旧家の500万円、1000万円もするような立派な仏壇には、やはりこの和ローソクでなければ・・・」
ということであった。
なるほど、さすが宿場の街「草津」であった。
 昨日あんなに積もっていた雪も、ほとんど歩くのに支障がないくらい溶けている。
道路も乾燥していて、今日は快適に歩けそうだ。

このあたりは、京に上る旅人が東海道からも中山道からもやってきてずいぶんにぎわったことだろう。

この東海道を踏破した暁には、是非中山道にも挑戦してみたい。
そして再びこの草津宿を歩くのだ。

〈草津宿東海道〉
  
〈立木神社〉                                               
 立木神社を過ぎ、順調に快適な東海道を歩く。
民家の庭先にりっぱな盆栽があったので、失礼して写真を一枚。

昨日の大雪がうそのように歩く道は快適に乾いている。
街道沿いの家の人たちが雪かきをしてくれたおかげだろう。
  
〈野路の玉川跡〉
野路の玉川

 道路を横断するのに地下道をくぐり、しばらく行くと「野路の玉川跡」というところがあった。

説明板を読むと・・・
 
野路の地名は平安時代末期にみえ、「平家物語」をはじめ、多くの紀行文にその名を見せている。
鎌倉時代には、源頼朝が上洛に際し、野路の地での逗留がみえるなど宿駅として武将の戦略起点ともなり、
また瀬田川沿いを宇治方面へ抜ける迂回路の分岐点にもあたり、交通の要衝として重視されていた。
云々・・・とある。

江戸時代には、ここに泉が湧き一面萩が咲き乱れ、旅人の目とのどを潤す名勝であったというが、
今はこのように、小さな公園になっているだけだ。
  
この常夜灯風の道標には、瀬田の唐橋まで4.6kmとある。
日本橋を出立して29日目、大津の「瀬田の唐橋」がもう目の前だ。

途中でちょっと道を間違えたりしたが、静かな大津の旧道を楽しみながら歩いてきた。
【第53次 大津宿 東海道最後の宿であり京から見れば最初の宿】
たにし飴

 瀬田の唐橋の手前に「たにし飴」という看板がある店があったので寄ってみる。
まさか、タニシを煮詰めて作った飴ではないだろう。
瀬田名物とあったので、中に入って店の奥さんに
「この店で作っているんですか」と聞くと「そうです」という答え。
とりあえず一袋買って一粒口に入れてみると、なつかしいニッキ飴の味がする。
すごくおいしい飴だったので、もっと買ってくればよかったが、このようなローカルな食べ物は一歩はずれるとなかなか売っている店はない。

タニシで作った飴ではなくて、タニシに似た飴でよかった。

〈たにし飴の店〉
 あまりにおいしかったので、横浜の家に帰ってから「たにし飴」を写真に撮っておいた。
また行く機会があれば買って来たい。

〈これが瀬田名物 たにし飴〉
瀬田の唐橋

 目の前に「瀬田の唐橋」が見えてきた。
昨日の雪はすっかり溶けて、快適な道になっている。

これまでこのあたりを通ったことはあったが、いつも車であったから、このように歩く目線で風景を眺めたことはない。
あらためて橋を見れば、すばらしい風景だ。

この橋は瀬田川の中州をはさんで大小二つの橋でできている。
大橋は約175メートル、小橋が約50メートル、全長は約350メートルの由緒ある橋だ。

〈いよいよ瀬田の唐橋を渡る〉
 晴れた空に瀬田の唐橋の擬宝珠が美しい。

琵琶湖から注ぎ出る川は瀬田川しかなく、京都防衛上の重要地であったことから、古来より
「唐橋を制するものは天下を制す」と言われた。
壬申の乱の際には大友皇子と大海人皇子の決戦場となった。
恵美押勝
(えみのおしかつ)の乱(藤原仲麻呂の乱)などでも幾度も戦場となり、破壊と再建を繰り返した。

藤原秀郷の大ムカデ退治伝説の舞台としても知られている。
現在の位置に橋を移したのは織田信長で、中の島を中継地に大橋と小橋の双橋構造としたのもこのときである。

〈瀬田川と瀬田の唐橋〉
急がばまわれ

 江戸時代初期に安楽庵策伝は「醒酔笑」に

武士(もののふ)のやばせの舟は早くとも急がば廻れ瀬田の唐橋

という連歌師の宗長の歌から
「急がば廻れ」のことわざが生まれたと紹介している。

琵琶湖を舟でつききって渡れば対岸には早く着くだろうが、舟は気象によっては転覆の危険もある。本当に急ぐときには、まわり道でもこの瀬田の唐橋を通った方が早いこともあるのだよ・・・というところだろうか。

〈瀬田川も美しい〉
  
〈瀬田の唐橋をゆく〉
俵藤太のムカデ退治

 瀬田の唐橋を越えたところに、俵藤太(藤原秀郷)のムカデ退治の案内板があった。

藤原秀郷は、平将門を討った武将として有名だ。
どうして下野の藤原秀郷が、瀬田の唐橋で大ムカデを退治することになったのか不思議だ。
平将門を打ち取ったことで、日本一の武将と思われたのだろうか。
平将門も若いころは京の公家のところに官位をもらうために無給で勤めに来ていた。

900年代の平安時代でも、関東から京まで宮仕えをしに来ていたというのは面白い。
 ちょうど昼時だし、唐橋のたもとにレストランがあったので、休憩がてら昼食をとることにする。

ランチもおいしかったが、食事のあと瀬田川にカモがいたのでパンでもやろうと投げてやったが、まったく近づいてこない。
この辺のカモは飽食しているのかとあきらめて続きを歩こうとしたら、どこからともなく小ぶりのカモメといった鳥が
飛んできた。

集まるわ、集まるわ。
投げるパンを上手に空中でくわえるので、カモも鯉も集まってきたが、川に落ちる前にみんな食べられてしまう。
  
〈一羽もいなかったのにパンで集まってきた〉
 しばし鳥と遊んでまた続きを歩く。

京阪電鉄の唐橋前駅を過ぎ、右に90度折れ北に向かう。
琵琶湖に沿って進むと膳所(ぜぜ)城勢多口総門跡がある。
かつてはかなり広大なお城があったようだ。
かなり歩いた先に、膳所城北総門跡があったが、この間がすべてお城の敷地ということだろう。

和田神社を過ぎた先に、琵琶湖が見えたのでちょっと湖畔で休むことにする。
水際では高校生か大学生の陸上部らしき一団がトレーニングをしている。
それをながめながら、軽くおやつを食べて体力をリセットする。

独特の形をした大津プリンスホテルも見える。
のんびりとした時間が過ぎてゆく。
  
 不思議な看板を出している店があった。

田中清風堂のご主人は何を考えているのか。
釣具と結納とどう結び付ければよいのか。

このあたりは、結納で商売ができるほど結納が多いのか。
それとも自分の知らない別の結納という言葉があるのか。
どう考えてもよくわからなかった。

〈釣具と結納?〉
義仲寺

 まもなく「義仲寺」が見えてきた。

いち早く京に源氏の旗を立てたが、後白川院と頼朝に疎まれ同族の源範頼と義経に、ついにこの地で攻め滅ぼされた木曾義仲を祀ったお寺だ。
享年31歳であったという。


その後、年あって見目麗しい尼僧が、この義仲の御墓所のほとりに草庵をむすび、日々の供養ねんごろであった。里人がいぶかって問うと、「われは名もなき女性(にょしょう)」と答えるのみである。この尼こそ、義仲の側室「巴御前」であった。尼の没後、この庵は「無名庵」ととなえられ、あるいは「巴(ともえ)寺」といい、木曾塚、木曾寺、また義仲寺とも呼ばれたことは、すでに鎌倉時代の文書に見られるという。
〈義仲寺案内より〉

〈義仲寺〉
 木曾義仲と、巴御前の墓に詣でる。
東海道を歩く間中どこにでも碑があった、松尾芭蕉の墓もこの義仲寺にある。
芭蕉は木曾義仲のファンで、死んだら義仲寺に義仲と一緒に葬って欲しいと遺言を残していたそうだ。

芭蕉翁は元禄7年(1694)10月12日大阪の旅舎で亡くなった。
享年51歳。
・・・今の弥次さんより1歳若いではないか。
遺言に従って遺骸を義仲寺に葬るため、その夜去来、其角、正秀ら門人10人が川舟にのせて淀川を上り
伏見に至り、13日午後義仲寺にはいった。
其角の「芭蕉翁終焉記」には「木曾塚の右に葬る」とあり、今も当時のままである
。・・・とある。
  
〈木曾義仲の墓〉                        〈巴御前の墓〉                         〈松尾芭蕉の墓〉
芭蕉の杖

 芭蕉が実際に使っていたとされる杖が展示されていた。
びっくりするくらい細くて頼りない杖であった。

木曾義仲といえば、木曾の山奥から京にいち早く入ったものの、田舎もので礼儀も知らず、部下も乱暴狼藉をはたらき、京で嫌われ者であったがゆえに、早々に討たれたというイメージであった。

ところが、芭蕉は義仲の隣に葬って欲しいというほどのファンであったという。
歴史は常に勝者の側に都合よく作られるから、義仲にはいいところがたくさんあったのかも知れない。

〈芭蕉が使っていた杖〉
 芭蕉の句は、本当に日本中いたるところで碑になっている。

川崎宿では、
麦の穂をたよりにつかむ別れかな
箱根宿では、
霧しぐれ富士を見ぬ日そおもしろき
丸子宿では、
梅わかな丸子の宿のとろろ汁
島田宿では、
馬方はしらじ時雨の大井川
        
さみだれの雲吹きおとせ大井川
        
するがぢやはなたち花も茶のにほい
金谷宿では、
道のべのむくげは馬に喰われけり
        
命なりわずかの笠の下涼み
赤坂宿では、
夏の月御油よりいでて赤坂や
藤川宿では、
ここも三河むらさき麦のかきつばた
坂下宿では、
ほっしんの初にこゆる鈴鹿山

きりがないが、この義仲寺にも大きな句碑があった。
        
旅に病んで夢は枯野をかけめぐる

〈旅に病んで夢は枯野をかけめぐるの碑〉
 義仲寺を出てさらに西を目指す。
今日はこの先の大津駅で終え、明日いよいよ最後の道を歩く予定だ。

大津事件

1kmほどで、左手に小さな碑が立っているのが見えた。
「露国皇太子遭難の地」の碑だ。

明治24年(1891)5月11日、日本を訪問していたロシア皇太子(後のニコライ二世)が警護の滋賀県警巡査津田三蔵に切りつけられた暗殺未遂事件の現場である。 

当時は極東の小国にすぎなかった日本で、大国ロシアの皇太子が襲われ怪我をしたということで、日本中に激震が走った。
天皇もすぐに京都に見舞いに赴いたのをはじめ、「大国ロシアが報復に攻めてくる」といううわさが蔓延し、「恐露病」の様相を呈した。
学校は謹慎の意を表して休校となり、神社や寺院や教会では皇太子平癒の祈祷がおこなわれた。
ニコライのもとに送られた見舞いの電報は1万通を越えたという。
このころには日露戦争など考えられないほど国力の差があったのだ。

日本中が津田三蔵を死刑にすべしという論調の中、時の大審院(今の最高裁判所)の児島惟謙は、法治国家として法は守らねばならないとし、政府の圧力に屈せずに無期懲役の判決を下した。

この事はロシアの反発は招いたが、国際的には日本の司法権に対する信頼を高める結果となった。



〈大津事件の現場〉


〈此付近露国皇太子遭難の地碑〉
 それにしても、13年後にこのロシアと開戦するなどこの当時の日本人のだれ一人想像もつかなかったことだろう。
ニコライは、ロシア王朝最後の皇帝としてロシア革命の末に処刑されるが、最後まで日本人のことを
「黄色いサル」と言って見下していたという。

当時は朝日新聞をはじめマスコミや東大教授たちも開戦をあおったらしいが、やはり勝てたのは
連合艦隊参謀だった秋山真之が死ぬまで言っていたという「天佑であった」と考えるほうが正解だろう。
無論、負けていたら北海道などはいまだにロシア領だったかもしれない。
東欧の国々の悲劇を日本も味わっていたかも知れないと考えるとぞっとする。

しかし、この日本軍は強いという勘違いが、太平洋戦争で無謀な精神論だけで戦うという日本陸軍の悪しき風習を作っていった。
それが最終的に日本中を空襲で焦土と化し、広島・長崎の悲劇へとつながってゆく。
今もむかしも官僚というものは、無責任極まりない。

と、憤慨したところで今日の東海道歩きのたびは終了。明日はいよいよ最終日、ゴールの三条大橋を目指すことになる。

これで終わりかと思うとちょっと寂しい。
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