〈二十八日目〉 平成20年 2月9日 土曜日 雪 水口宿〜石部宿〜草津宿
 昨年のクリスマスイブに、この三雲駅まで歩いてから、一月半が経とうとしていた。
正月に三条大橋にゴールするのもいいね・・・と弥次さんと話していたが、平塚のお母さんが
来年の正月はどこかのホテルで迎えてみたいというので、正月は熱海のホテルで迎えることにした。
だから東海道踏破は、のびのびになっていた。

喜多さんの母親は今年で80歳になるが、いままで自宅以外で正月を迎えたことがない。
長男に嫁いで、ずっと暮正月は実家に来る親戚や我々子どもたちのご馳走を作って、大変だったのだ。

小学校の先生だったお母さんは、80歳を目前に初めて自宅以外で大晦日を過ごすことになった。
暮れに探したホテルなので、料金に見合った内容とは言いがたかったが、我々も太平洋に上る初日の出を初めて拝んだ。

〈熱海のホテルからの初日の出〉
 今回は、新横浜から「のぞみ」で京都駅にやってきた。
着替えなどの荷物は京都駅のロッカーに預け、リュック一つの身軽なかっこうで草津線に乗り換え、前回歩き終えた「三雲駅」に到着した。

三雲駅に着いたのは9時45分。
天気予報では午後から雪となっていたので、午前中になるべく距離をかせぐつもりであったが、駅に着いた時にはすでに雪がちらついていた。
でも、まだ傘をさすほどの降りではないから、これ以上ひどくならないよう祈って出発する。

〈三雲の旧道をゆく〉
 前回、猿飛佐助はこの三雲の出身だと書いた。
以下は、司馬遼太郎さんの文章であるがそのまま転記する。

 
佐助は伝説の英雄ではなく、実在していた。
甲賀五十三家といわれる近江甲賀郡の郷士のうち、三雲氏というのがある。
代々、甲賀郡吉永山に城館をかまえ、戦国のなかごろ、三雲新左衛門賢持という人物がでて、
近江の守護佐々木家につかえ、間忍(諜報)のことをつかさどった。
(中略)
その新左衛門賢持の子賢方の代に、主家佐々木家が織田信長にほろぼされ、賢方は山林にかくれた。
三人の子をそだて、兄二人は、それぞれ働きのある忍者として、上杉、筒井氏などに仕えさせたというが、
末子佐助のみは、手もとにおいて、さらに修行をつませた。
(中略)
猿飛の異名は、その身軽さから出たものだろう。
佐助は、ただしくは、三雲佐助賢春という。父新太夫賢方の死後、甲賀の山をおりて、つてをもとめ、
大阪の豊臣家につかえた。
大阪の冬・夏の陣の前後に神妙の術技をみせた猿飛佐助とは、この三雲賢春のことをいうのである。
【第51次 石部宿 石部金吉の名前が生まれた石部宿】
石部宿へ

 今となっては、佐助をしのばせるものなど街道沿いに残っているわけもない。
線路を渡った先に食料品店があったので、道中のおやつを少し仕入れることにする。

水口宿から石部宿へと入る。
この道標の向こうはJR草津線の線路であるが、踏み切りの陰にパトカーが隠れていて、一時停止をしない車がいたらすぐに捕まえちゃるけんね的な取締りをしていた。
そのパトカーの横をすり抜けさらに西を目指す。

〈旧東海道道標〉
天井川

 前方に立派なアーチ状のトンネルが見えてきた。
これは知らないと単に通り過ぎてしまうだけだが、大沙川という名の「天井川」なのであった。小学生のときに習って言葉だけは知っていたが、この年になるまで天井川というものを見たことがなかった。

水は低いところを流れるというのが常識であるが、ここでは水は高いところを流れているのであった。地面より高いところを流れる川を「天井川」というが、このあたりに多いのはどういうわけがあるのだろう。

スペインなどにはローマ時代の水道橋が残っていたりするが、それに近いものだろうか。

〈天井川の下をトンネルが通る〉
調べてみると、砂礫の堆積により川床が周辺の平面地よりも高くなった川である・・・とある。川に堤防が作られ氾濫がなくなるとさらに堆積した土砂の上を水が流れるようになり、だんだん高くなって行ったようだ。

川によっては高くなりすぎた水面の下にトンネルを掘り、人や車を通らせたとあるが、
これがまさにそうなのであろう。

ということは、ローマやスペインの水道橋のような人工的なものではなく、最初は自然にできた川に人間が手を加えたというのが正しいようだ。

〈大沙川 これが川?〉
     
 〈天井川のトンネルをゆく〉
 トンネルを越えた左手に、弘法大師が植えたという樹齢750年の杉があったので上がってみる。
杉も立派だが、樹齢750年程度の杉なら結構あちこちにある。
しかし、天井川がどのように流れているか興味があったのでのぞいてみると、水は流れていなかった。

また、関東では渡良瀬川なども天井川になっているというが、全体的には近畿地方に多いようだ。
下の写真の真ん中が天井川を上から見たところだが、これは川というよりは水路という感じだ。
    
〈弘法杉と天井川〉
雪が積もり始める

 心配が的中し、雪がどんどん激しくなってくる。

本来、弥次さんは「晴れ男」を自認していた。
天に勝てる人間などいるわけはないのだが、今まで不思議なことに出かけるとさっきまで降っていた雨がやんでくれたり、逆に家に着いたとたんに雨が本格的に降り始めたりしたことが多かった。

どうも年をとったせいで、神通力がなくなったようだ。
これも風情とあきらめて喜多さんとせっせと続きを歩く。

〈民家の庭の南天〉
 また、天井川が見えてきた。
この川は由良谷川というらしいが、やはり川というものは水面を上から見下ろすほうが自然だ。

喜多さんは、道中川にかかる橋の上から魚にパンを投げてやるのを楽しみにしている。これではえさを投げてやれないではないか。

〈また天井川が・・・〉
  
〈だんだんと雪が積もってくる〉
 見る見る雪が積もって道路が白くなってゆく。
普段でも田舎の道は歩いている人がほとんどいないのに、こんな雪の日は誰も外になんか出てこない。
人っ子一人いない石部宿を弥次喜多道中は続く。
江戸時代にも当然雪は降っただろうから、冬の旅人の雰囲気が味わえてラッキーと思うことにして歩くが
それにしても・・・・・・

〈石部・目川ノ里 江戸より51番目の宿〉
休憩所でひと休み

 石部宿に入ったところに、立派な無料休憩所があった。

街道を歩く旅人にとって、このような休憩所を設けてくれている町は本当にありがたい。

喫茶店かファーストフードの店でもあれば休憩できるのだが、このような旧道沿いにはまずない。あるとすると、車で走ると目に付く国道沿いなので、弥次喜多道中ではなかなか恩恵にあずかれない。

〈石部宿の無料休憩所〉
 ま、店側としてもこのような人通りの少ない道に店を出しても採算が取れないということだろう。

おかげでトイレも済ませ、軽い食事もして再び雪の東海道に戻る。

〈立派な休憩所〉
いしべえどん

 その先の田楽茶屋に道中合羽に三度笠をかぶった「いしべえどん」がいた。
なかなか味のあるキャラクターなのだが、宿場全体で盛り立てようということでもないらしい。
ほかの場所では一度も見なかった。

地図を見るとこのあたりは名神高速の栗東ICのすぐ近くだ。
高速道路は岩国に帰るのに何度も通ったし、栗東ICも琵琶湖に行くのに降りたこともあるが、今回東海道を歩かなければ、まずこの道を通ることはなかっただろう。

〈いしべえどん〉
石部金吉

 この先の左手に「石部金山跡」がある。
雪が降りしきっているので山は見えなかったが、この石部金山は頭が固い男を揶揄していう
「石部金吉」の語源となった。
いかにも頑固そうな名前ではないか。
しかし金山の名はついているが、実際に取れたのは銅であったらしい。

その先に、ちょっとした公園があり、東海道五十三次が石版に彫ってある立派な碑があった。
しかし、ご覧のとおり辺りはすっかり雪景色だ。
一人旅だったら絶対にくじけていたと思うが、喜多さんはまだやるき満々であった。
  
  
和中散本舗

 「京たち石部泊まり」といわれ、京から江戸に向かう旅人が最初に泊まるのがこの石部である・・・とガイドには出ている。
距離からすれば、日本橋から保土ヶ谷か戸塚くらいということだろう。

近江富士と呼ばれる三上山を右手に見ながら進むとガイドにはあるが、雪でまったく景色が見えない。

左手に「旧和中散本舗」のりっぱな建物が見えた。
庭は小堀遠州作、贅を尽くした江戸時代の豪商の家で、街道に面した作業場には薬を作るための石臼をまわす、木製の歯車などの装置があって興味深い・・・・とあるが、何も見えなかった。

〈旧和中散本舗〉
 縁側のようなところがあったので、二人で腰掛けて休ませてもらう。
りっぱな家は維持していくのが大変だろう。

降りしきる雪の中で、しばし休憩してさらに西を目指す。
  
 手原駅でトイレ休憩することにする。
駅に折れる手前にあった神社に雪が降り積もって、味のある景色になっている。

それにしても、道の雪は解けて靴にしみこんでくる。
歩いているときは体温で冷たくも感じないが、かなりの水を吸っているはずだ。
はやく、草津について京都のやどに向かいたい。

今回のやどは、京都の御所の北、鴨川の近くにある会社の寮を予約してあるのだ。
一泊二食で2,700円、安くて助かる。

〈稲荷神社〉
子午線を通過

 「東経136度子午線」という石柱があった。
手もとには調べる資料もなかったので、これがどれほど珍しいものか特に感慨もなかった。

帰ってから日本地図を調べると、東経136度は福井県敦賀市から琵琶湖を通り、和歌山県新宮市から太平洋に抜けている。
あらためて日本地図を見ると、日本は122度あたりの与那国島から、148度あたりの択捉島までずいぶんと広い島である。

今回歩いたのは、わずか140度あたりの東京から、この136度あたりまでのたったの4度くらいのものだ。

〈東経136度 子午線の碑〉
 地球が一周約40,000kmだから、1度は360度で割れば約111kmということになる。
4度ということは、約450kmだ。
東海道が日本橋から三条大橋まで歩く距離で495kmというから、ちゃんとつじつまがあっている。

それにしても、街道は本来なら歩ける天気ではなくなってきている。
地元の人は誰も外に出ていない。

映画「八甲田山」で、高倉健率いる部隊の行軍中に歌われていた軍歌「雪の進軍」を口ずさみながら歩く。

『♪雪の進軍氷を踏んでどこが河やら道さえ知れず〜、馬は倒れるすててもおけず、
ここはいずくぞ皆敵の国、ままよ大胆一服やれば頼み少なや煙草が二本』

作詞・作曲 永井建子

〈雪の東海道石部宿〉
  
田楽発祥の地

 もう草津宿は目の前だ。
東海道を示す石碑に積もった雪は15cmくらいになっている。

このあたりは歩道が整備されてなく、解けた雪をくるまがはねながら行過ぎる道を避難しながら歩く。

「田楽発祥の地」という石碑があった。
何でも石碑にすればよいというものでもないだろうに。
宮宿には「都都逸発祥の地」碑があったし、まあ横浜にも「アイスクリーム発祥の地」や「クリーニング発祥の地」
という碑があるから、よしとするか。
老牛馬養生所跡

 新幹線の線路をくぐると「史跡 老牛馬養生所跡」の碑があった。

湖西和称村の庄屋であった岸岡長右衛門は、年老いた牛馬を打ちはぎ(殴り殺して皮をはぐこと)にする様子を見てその残酷さにおどろき、老牛馬であっても息のあるうちは打ちはぎにすることをやめるように呼びかけた。
そして、天保2年(1841)、老牛馬に静かに余生をおくらせようと、東海道と中山道の合流点に近いこの地に養生所を設立した。
 

とある。

人間も老いた人を大切にしなきゃいかん・・・と若いものに言って聞かせよう。

〈老牛馬養生所跡〉
草津川を渡る

 特に標識もでていなかったが、この天井川になっている草津川を渡るのが旧道らしい。
喜多さんの鼻が利いて、坂を登ると川があった。
草津川は今は水がまったく流れていない。

遭難しそうになるほど雪が積もった草津川を渡ると、下り坂になっていて、常夜灯の形をした道標があった。
「左 東海道いせ道 右 金勝寺志がらき道」とある。
文化13年(1816)に建てられたものだという。

〈天井川の草津川〉
【第52次 草津宿 中山道と合流する】

〈草津宿の入り口〉

〈東海道と信楽道の追分〉
 今日は本当に喜多さんが一緒で心強かった。
一人でこんな雪の中を十数キロも歩けるものではない。

やっと、草津宿に着いた。
草津宿は、東海道と中山道の合流する宿で、昔から大いににぎわった宿場だ。

〈草津・名物立場 江戸より52番目の宿〉
草津宿本陣資料館

 明日は、この草津宿から大津宿まで歩く予定だが、時間を有効に使うために、国指定史跡「草津宿本陣」は今日見学しておくことにする。

〈草津本陣資料館〉
 東海道で本陣資料館があるのは、9月に訪れた二川宿とこの草津宿の2ヶ所だけだ。

上の写真が玄関だが、本陣の主人は裃を着用し、この玄関広間前で大名などを出迎えたという。

右の部屋は上段の間で、大名などの休憩や宿泊に使われた部屋だ。

〈上段の間〉
 宿帳のようなものも残っていて、自分が書くものではないだろうが、本陣に宿泊した人が記録されている。

本来であれば、本陣とは多摩の百姓の出であった新撰組の近藤勇や土方歳三などが泊まれるような施設ではなかった。
大名やお供の武士以外は旅籠か木賃宿に泊まるしかなかった。
しかし、幕末の混乱の中で、近藤や土方は徳川幕府の旗本に抜擢された。
もうすぐ滅び行く幕府の旗本に取り立てられた近藤勇は狂喜したという。

歩いているときには感じなかった雪にぬれた足が冷たい。

〈新撰組 土方歳三の名もある宿帳〉
草津宿街道交流館

 共通券で「草津宿街道交流館」に入れるというので、少し先だが寄ってみることにする。

旅体験コーナーというのがあった。
幸いにも誰もいなかったので、道中合羽に手甲・脚絆をつけ、喜多さんと江戸時代の旅人になってみた。
  
〈草津宿街道交流館で〉
江戸時代の食事

 旅籠の食事も、今でも十分おいしく食べられそうな立派なもので、このような食事をしていたら、成人病はなくなるだろう。

肉類はあまり欲しくなくなったせいで、このくらいのおかずがあれば十分だ。


ただし、これは本陣に泊ることのできるクラスの人の食事であって、庶民は毎日このようなごちそうを食べていたわけではない。

〈今でも十分ごちそう〉
うばがもち

 国道沿いに戦国時代から続く「草津名物うばがもち」の本店があるそうだが、草津駅にも店があったので本店には行かずに購入する。とりあえず、本日のやどでのおやつと、あんこ餅が好きな息子のお土産に2箱買った。

うばがもちの由来

「うばがもち」は永禄年間(1558〜1569)に生まれた。
近江源氏佐々木義賢は時の織田信長に滅ぼされたが、その中に三歳になる曽孫もいた。義賢は臨終の際、乳母「福井との」に後事を託す。
郷里草津に戻った乳母「との」は、もちを作っては売り養育の資とした。そして誰いうことなくついた餅の名前が「姥(乳母)が餅」

〈草津名物 うばが餅〉
 今日は雪の中を本当によくがんばって歩いた。
弥次喜多二人とも大いにほめてもらってもよい・・・が、誰もほめてくれないので、さっさとやどに向かう。

草津駅から京都駅まで草津線で、京都駅から地下鉄で会社の寮に着いた。
早々に風呂に入って、夕食をいただく。
この寮は、一泊二食で2,700円と格安なのだが、部屋もきれいで食事がすばらしい。
外で食べると4〜5,000円はすると思われる内容だ。
ビールで無事の草津着を祝って乾杯する。

いよいよ、明日は草津宿から大津宿。
そして、あさってはゴールの三条大橋だ。

あさってで東海道のたびも終わるのかと思うと、すこしさみしい気持ちになる。
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