〈27日目〉 平成19年12月24日 月曜日 晴れ 水口宿〜石部宿 
 
【第50次 水口宿 この宿の名産品かんぴょうが国替えで栃木県の名産になった】 
   

〈水口・名物干瓢 江戸より50番目の宿〉
   
間違えた道へ引き返す

 草津のビジネスホテルを朝7時ころ出発して、昨日痛恨の間違いをした水口宿へ向かう。一番近いのは水口石橋駅であるが、タクシーがいそうにないのでJRの貴生川駅でおりて、タクシーを捜すが・・・やはりいない。昨日、道を間違えたところまでタクシーで行って、そこからまた歩きなおすつもりなのだ。しかたないので、駅の看板にあったタクシー会社に電話をして、貴生川駅まで来てもらうことにする。

〈水口宿 見附跡〉
   
 待つこと十数分、やっとタクシーが来た。2,300円を払って、昨日道を間違えたところでおろしてもらう。ちょうど水口宿の入り口だ。

タクシーの運転手さんは、「このあたりは見るところが何もないからね〜」などと謙遜しつつ、旧東海道の場所を教えてくれた。

〈水口宿入り口〉
   
街道をゆく

 やっと昨日間違えて違う道に入ってしまった場所から正しい旧道に入る。これだよ、この道だよ、昨日の道は見るからに違うだろ!!いかにも旧東海道でございます・・・という道をしばらく行くと、敬愛する司馬遼太郎の「街道をゆく」の碑があった。

 『古い街道には、いにしえ人の気配があります。その曲がりくねった道筋に、路傍の道標に歴史があります。あるときは戦の道となって人馬どよめき、あるときは参宮の道となって賑やかな歌声に包まれたであろうこの道。東海道は遠い昔にその役割を終え、今や暮らしの道として、風景の中に伸びています。』〈司馬遼太郎〉

〈街道をゆく碑〉
   
逢魔が時

 昨日歩いた道は、こんな雰囲気の良い道ではなかった。間違えた自分が悪いのだが、車がビュンビュン走るバイパス沿いを歩いてしまったのが、何とも悔やまれる。

暗闇は、人間の判断を誤らせる。昔から、黄昏
(たそがれ)時や彼誰(かはたれ)時は、逢魔が時として恐れられた。たそがれ時は、誰そ彼(たれそかれ)の時であるし、かわたれ時は彼は誰(かはたれ)の時であった。すれ違う人も見知った人であるか、それとも魔物であるか、猜疑心にとらわれる時刻であった。狐や狸に化かされることもあながちないとは言えない。

〈雰囲気のある虫籠窓の家〉
   
どこか懐かしいような、日本の田舎の風景が広がる。このような道ならどこまでも歩いて行きたいと思う。
タクシーの運転手さんの言うとおり、このあたりは旧所名跡があるわけでもないが、のどかな道が続き、
街道を歩いている雰囲気にひたれる。
 
   

〈水口宿の旧東海道〉
   
水口宿東見附跡

 上り坂を上がりきると、冠木門が見えてきた。水口宿の東見附跡だとある。喜多さんは、ベンチに腰掛けてしばし休憩。ここから水口宿の繁華街に入るということか。

この先には、本陣跡や脇本陣跡があり、復元された高札場もある。

〈水口宿東見附跡〉
   
水口宿高札場

 この高札場をはさんで、道が二またに分かれている。ここは、左の道を進むと、さらに道が二またに分かれている。ガイドによっては、この並行する三筋の真ん中の道が東海道だと書いてある本もあるが、いやいやこの三本とも旧東海道だとする案内もある。
いずれにしても、この三本の道は江戸時代から続く道で、あとから作られたものではないようだ。

〈復元された高札場〉
   

〈桔梗屋文七〉

〈アーケードに覆われた古い家〉
   
 この通りには、桔梗屋文七という渋い看板を掲げた家があった。名前からすると呉服屋さんのような気がするがどうであろう。さらに行くと、街道がアーケードで覆われており、古い家の屋根の上にトタン板の覆いがしてあるところがあった。これはどうもいただけない。美的センスがなさ過ぎる。せっかくの古い家が、みすぼらしく見える。からくり時計のところで、三筋に分かれていた道が、また一つになる。
〈からくり時計〉
   
喫茶店でひと休み

 ちょうどここは、水口石橋駅の前で、駅前に喫茶店があったので一休みすることにする。コーヒーを注文し、メニューに大判焼があったので二人分追加で注文した。すでに焼いてあるか、冷凍品をあっためたのが出てくるかと思ったら、喫茶店のご主人が「ちょっと待ってくださいね」と、大判焼を粉から溶いて焼き始めるのだった。

店にNHKで放映された「街道てくてく旅」のポスターが貼ってあったので見ていたら、「東海道を歩いているんですか」と聞かれたので、「ちょうど一年前に日本橋を出て、今日で27日目です。」と答えてしばらく東海道談義をした。

〈三筋の道が一つになる〉
   
 本当にちょうど丸一年が過ぎた。二年間くらいで京都までたどり着ければ・・・と思っていたのに、ちょうど一年で、あと50kmくらいのところまで歩いてきた。店のご主人に、「街道てくてく旅」の冊子や、水口のガイドをもらい、励まされて再び歩き始める。

道路わきに「有限会社 琵琶湖爆砕」という、物騒な看板があったので、喜多さんに是非写真を撮るように勧められた。

〈琵琶湖爆砕とは何をするのだろう〉
   
水口石

 「水口石」というのがあった。説明板には、

 
『東海道に面した小坂町の曲がり角に伝えられる大石。「力石」とも呼ばれる。江戸時代から知られた大石と見えて、浮世絵師国芳が錦絵の題に採っている。このあたりは水口藩の藩庁にもほど近く、長大な百件御長屋や、小坂町御門など城下のたたずまいが濃かった。』とある。

〈水口石〉
   
林口一里塚

 このあたりの道は、今はまっすぐな道路になっているが、江戸時代は城下町の道がよくそうしているように、曲がり角が多くつくってある。旧東海道地図を見ながら6回も道を曲がって、元の道に復帰したが、その最後の曲がり角のところに、一里塚があった。日本橋から113里目になるという。

その先の、柏木公民館の前にからくり人形があって、広重の絵にもあるかんぴょうを干す場面が見られる・・・と誰かのHPにあったのに、うかつにも忘れていて、通り過ぎてしまった。
広重の絵に対応する写真に使おうと思っていったのに、残念無念。

〈林口一里塚〉
   
泉一里塚と珍しいお墓

 横田の渡し跡の手前に「泉一里塚」があった。一里塚は、もうそんなに珍しくはないのだが、この一里塚の右手にあったお墓が、非常に珍しいものであった。写真に撮ってこようと思ったが、一般の人のお墓なので、遠慮して撮ってこなかった。おばあさんが墓参りに来ていたので、聞いてみようかと思ったが、やっぱり遠慮して聞けなかった。

何が珍しかったのか。要するに、墓が「土饅頭」だったのだ。何十もある墓が、この一里塚のように土が盛り上げてあるだけで、卒塔婆のようなものは立っていたが、墓石もない。まさか、今どき土葬でもないだろう。喜多さんと「変わってるね〜」「初めてみたね〜」などと、感想を述べ合いながらその先を行くと、横田の渡し跡にぶつかった。

〈泉一里塚〉
   
東海道横田渡

 
鈴鹿山脈に源を発する野洲川は、このあたりで「横田川」と呼ばれてきました。伊勢参宮や東国へ向かう旅人は、この川を渡らねばならず、室町時代の資料にも「横田河橋」の名が見えています。江戸時代に入り東海道が整備され、当所は東海道十三渡のひとつとして重視され、軍事的な意味からも幕府の管轄下に置かれました。そのため、ほかの「渡」と同じく通年の架橋は許されず、地元泉村に「渡」の公役を命じ、賃銭を徴収してその維持に当たらせました。これによると、三月から九月の間は四艘の船による船渡しとし、十月から翌二月までの間は、流路の部分に土橋を架けて通行させたようです。野洲川と支流の仙川が合流する当地は水流も激しく、また流れの中には巨石も顔を見せ、道中の難所に数えられました。「渡」の景観は、往時のガイドブックである名所図会や絵図にも多数描かれており、旅人で大いに賑わいました。

〈横田の渡し跡〉
   
大常夜灯

 門の向こうに見える巨大な常夜灯は、村人たちがお金を出し合って、文政5年
(1822)につくったものであるという。

明治24年には木橋が架けられたが、昭和4年に現在の位置に移され、この位置には石垣しか残っていない。

〈大常夜灯と説明板〉
   
野洲川を渡る

 野洲川の横田橋を渡る。今の橋の右手に、古い橋脚の跡が残っている。こんなにはっきりと取り除かれないで残っているのは、珍しいのではないだろうか。取り除く費用がなかったのか。それとも、訳があってそのままにしてあるのだろうか。

JRの鉄道の下をくぐると、「三雲駅」が見えてきた。予定では、石部駅までたどり着いてから、本日の東海道歩きは終了のはずであったが、結構いい時間になった。経費節約のために、今日は草津経由で青春18キップで横浜まで帰るつもりなのだ。
   

〈横田橋を渡るとすぐに三雲駅〉
   
三雲駅

 石部駅まで歩くのをあきらめて、この三雲駅から電車に乗ることにする。寒かったので、手前の酒屋さんで温かいワンカップを買って電車に乗りほっと一息。ちびちび飲む熱燗がうまい。あとはひたすら電車を乗り継いで帰るだけだ。

この三雲は、猿飛佐助の生まれ故郷で、猿飛の本名は三雲姓であった。この話の続きはまた次回のお楽しみ。三雲駅から草津線で草津まで行き、東海道線に乗り換え、米原・大垣・名古屋・岡崎・浜松・熱海と乗り継いで、大船から磯子に帰る。交通費はひとり往復4,600円で済んだ。

〈JR草津線 三雲駅〉
   
   
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