〈二十六日目〉 平成19年 12月23日 日曜日 晴れ 関宿〜坂下宿〜土山宿〜水口宿
【関宿続き】
 ありがたいことに、昨日の雨がすっかり上がって、絶好の鈴鹿越え日和となった。
昨日の疲れもすっかり取れて、やる気満々の弥次喜多コンビであった。

せっかく関ロッジに泊まったのだから、ロッジの周りを散策して、それから旧東海道を歩き始めることにする。
      
〈関ロッジの裏手の池と吊橋〉

〈東海道歩きの前に散策〉
ブルトレホテル

 この関ロッジでは、ブルートレインに宿泊できる。
予約するときにちょっと心が動いたのだが、前に寝台車に乗って広島で入院している母を見舞いに娘と帰ったとき、ぜんぜん眠れなかったことがあったので、やはり普通の部屋に宿泊することにした。

昔は、「あさかぜ」などのブルートレインを利用して岩国に帰ったこともあったが、ここ10年くらいは利用したことがない。
そうこうするうちに、やはり利用客が少ないのであろう、寝台列車はみんな廃止になってしまった。

だから、寝台車に寝てみたい人は、この関ロッジに来れば体験できますよ。

〈ブルートレインホテル〉
不思議な外装

 関宿の西のはずれに、二階の一部だけが洋風のタイル貼りになった家があった。
昔ながらの和風つくりの窓の外に、一部だけアーチ型の覆いがタイルでこしらえてある。

これはどういう意図でつくられたものだろうか。
この家の主人が、洋風の建物にあこがれたのだろうか。
どう見てもアンバランスで違和感があるが、思わずカメラを向けたくなる。

〈一部だけが洋風タイルの家〉
 この「あいづや」は、今はそば屋さんになっているが、もとは旅籠で江戸時代には「山田屋」と呼ばれていた。
前回紹介した、関の小万が生まれ育ち、敵討ちを果たしたあとも働いていたという旅籠である。
 
〈小万が生まれ育ち、働いていた元旅籠〉
関の小万の墓

 「福蔵寺」という寺があったので入ってみると、その関の小万の墓があった。
知ってる人は知っているという人なのであろうが、勉強不足の弥次さんはまったく知らない人であった。

それにしても、昔の武士の家はきゅうくつなもので、親族が殺されると敵討ちに出なければならなかった。残された妻や子どもが敵討ちに出かけないと非難されたそうで、逆に返り討ちにあった人も多かったであろう。

いまは法律で敵討ちは禁じられているが、これはこれで被害者の親族にとっては忸怩たる思いがあるだろう。
中には、心底敵討ちをしたい人もいるだろう。

〈関の小万の墓〉
関の山

 「関の山」の語源は、この関宿の関だそうだ。

もうこれ以上のことはできっこないという限界にいう言葉で、「どうせそのくらいが関の山だよ」などと使う。
「やま」は、祭りに出る飾り車のことで、関東では「だし」、関西では「やま」と呼ぶ。この「やま」のたいへん豪勢なのがこの関宿の八坂神社の祭りで、関の「やま」はたいしたものだ、どこへ行ってもこれ以上贅沢はできないだろうという評判がたった。
そこから、「関の山」といえば、もうこれ以上はできないという意味になったといわれる。

〈関宿常夜灯〉
 関宿西の追分に無人の休憩所があったので、トイレを借り、地図をもらう。その休憩所に、尋ね人の張り紙があった。
昨年、この関宿に観光に来て、行方不明になった年配の男性がいるらしい。
その奥さんが、ご主人の顔写真入りのチラシを貼って、情報の提供を呼びかけている。
どうも、ご主人は痴呆症だったらしいが、いい大人がこのような場所で行方不明になることもあるのだと、感慨にふける。

これから、我々は鈴鹿の山に入るわけだが、山に迷い込んで1年も経てばさすがに生きてはいないだろう。
行方不明の男性の無事を祈って、出発する。

〈目の前に鈴鹿峠が見える〉
【第48次 坂下宿 筆捨山は何てことない山】
 
〈阪之下/坂下・筆捨山 江戸より48番目の宿〉
筆捨山

 「坂は照る照る鈴鹿は曇る あいの土山雨がふる」と鈴鹿の馬子唄にうたわれているくらい、鈴鹿は天気の変わりやすいところらしい。東海道歩きでは、たびたび雨に降られている弥次さんであるが、今日はみごとに晴れた。

右に筆捨山が見えてきた。
その昔、画家の狩野元信が旅の途中でこの山を描こうと筆をとったところ、天候が変わりやすく、山の風景が刻々と変わってしまうことに絵をあきらめ筆を投げ捨てたことから、この「筆捨山」の名がついたと伝えられるそうだ。

江戸時代には、名勝として浮世絵に多く描かれているというが、正直な話、そんな風光明媚な山には見えない。

〈筆捨山〉
 しかし筆捨山とは、なんとなくそそられるネーミングだ。
どんなに素晴らしい山だろうと期待して来ると、たぶんほとんどの人ががっかりすると思う。

しかし、何事も今を基準に考えるのは間違いで、江戸時代にはそれなりの名所であったようだから、当時は素晴らしい景色の場所であったに違いない。   

〈筆捨山バス停〉
 この坂下宿は、鈴鹿の坂の下にあるから「坂下(さかのした)宿」の名がついた。
しかし、鉄道からも国道からも外れたために、まったくさびれた宿になっている。

関宿や亀山宿があのように古い建物を保存し、観光客をひきつけるのに、この「坂下宿」は、
申し訳程度に立てられた本陣跡碑や、一里塚碑などが残されているだけである。

〈一里塚跡碑〉
  
〈大竹屋本陣跡〉
鈴鹿馬子唄会館

 木の標柱がずらりと並び、その標柱に日本橋から始まる五十三次が表示されている道が見えてきた。「鈴鹿馬子唄会館」へ続く道だ。

このあたりは、馬子が馬をひいて鈴鹿峠を越える旅人を乗せたのだろうか。
大名行列では、荷物も馬の背で運んだに違いない。   

〈鈴鹿馬子唄〉
鈴鹿峠を越える馬子たちの間でいつしか歌われ始め、近松門左衛門の浄瑠璃などにより広く全国に知れ渡っていった。

坂は照る照る鈴鹿は曇るあいの土山雨が降る
坂ノ下では大竹小竹宿がとりたや小竹屋に
関の小万が亀山通い月に雪駄が二十五足

〈鈴鹿馬子唄会館への道〉
 その「鈴鹿馬子唄会館」に入ってみた。

入場無料であるが、施設はそんなに見所があるわけではない。
ただ、りっぱな休憩所ときれいなトイレがあるので、お借りして一休みする。

鈴鹿峠の「鏡岩」にまつわる映像の解説が面白かった。
かつて、山賊が跋扈していたこの鈴鹿峠には表面が鏡のように滑らかな「鏡岩」という岩があり、その岩に写る旅人の姿をとらえおそっていたという。別名「鬼の姿見」とも呼ばれたという。

いまでこそ、無防備な弥次喜多道中ができるが、そのころは確かに命がけの峠越えであったに違いない。

〈もうすぐ鈴鹿峠にさしかかる 山賊はいないか〉
いよいよ鈴鹿峠へ

 下調べでは、この右に上がる道がわかっていたのに、通り過ぎて国道を歩いてしまった。数百メートル行き過ぎてから間違いに気づき、戻ってきた。
この右の道が、「片山神社」経由で鈴鹿峠に続く道だ。

だんだん道はさびしくなってくるし、歩いている人も見当たらない。
山賊が出て、身ぐるみはがれたらどうしよう。

〈鈴鹿峠への正しい道〉
鈴鹿流薙刀術叢生の地

 片山神社があったが、石段は今にも崩れそうで「キケン上がるな」の張り紙がしてある。
手入れされることもなく、荒れ放題になっているようだ。

さすがに、参拝するのはあきらめて、神社の前の道を左に行ってしまったら、またもや道が違う。
違う場所の自動車道に突き当たったため、また片山神社のところまで引き返す。

この
「鈴鹿流薙刀術叢生之地」の碑のある右の道へ行かなければならなかったのだ。

〈こんな山奥で鈴鹿流薙刀術が生まれた〉
鈴鹿峠の石畳

 そうすると、かなり急な坂道を登ってゆく道が、石畳になっているところがある。

この石畳は、金谷や菊川や箱根の一部の石畳のように復元されたものではないだろう。
いかにも、古そうな石が並んでいる。

たぶん、江戸時代の大名行列や維新の志士たちも踏みしめたに違いない石畳を、歴史を感じながら歩く。

〈いかにも古そうな石畳〉
芭蕉句碑

 この鈴鹿の山にも、芭蕉の句碑があった。

 
ほっしんの初にこゆる鈴鹿山

本当に芭蕉という人は、どこに行っても出てくる。
東海道だけでなく、東北地方に行けば当然「おくの細道」で出てくるし、日本中行ってないところはないんじゃないかとも思える。

しかも、それぞれに後世に残る句を残しているのだから、本当に大した人だったのだろう。

〈ここにも芭蕉の句碑が
    
〈鈴鹿峠の古道〉                        〈鏡岩〉                              〈鏡岩をのぞいてみる〉
鏡岩

 先ほど紹介した「鏡岩」に立ち寄ってみる。
この「鏡岩」は、東海道から150メートルほど外れたところにある。

しかし、どの部分を指して鏡と名づけたのか皆目わからない。
何百年か前には、本当に鏡のように人が映るほどの岩だったのだろうか。

「誇大広告」という言葉が浮かんでくる。

ただし、「鏡岩」から下を覗き込んでみると、眺めはすごく良い。
蛇行して伸びる国道1号線が見える。
上り・下りの道路は日光のいろは坂のように別になっており、運転手が間違えないように、道路に矢印がかかれている。

走っている車は、そんなに多くない。
この急で曲がりくねった鈴鹿峠を避けて、名神高速を使う車が多いのだろう。

〈鏡岩から見た国道1号線〉
【第49次 土山宿 田村神社と蟹ヶ坂飴 宿場の雰囲気のよく残るきれいな町】
鈴鹿峠を越えると土山宿


 鈴鹿峠を上りきったところからは、平地が広がる。
あれだけ登ってきたのだから、箱根と同じように今度は下る道かと思ったら、滋賀県にかけては平地が広がり、だらだらとゆっくり下る道になるようだ。

この土山宿はお茶の産地で、早速お茶畑が広がる。

〈鈴鹿峠のお茶畑〉
万人講常夜灯

 このお茶畑の少し先に。「万人講常夜灯」というのがあった。
総重量38トン、高さ5.44メートル。

山と渓谷社の「東海道を歩く」には、もとは四国の金刀比羅神社にあったものを、江戸時代中ごろここへ持ってきた・・・と書いてあった。

休憩所があったので、ここで、少し休んで昼食もとる。

やはり、あるいてきたらしいおじさんが一人追い越してゆく。
運が悪いと、雪に降られてもおかしくない季節にこうして鈴鹿峠を越えることができた。

感謝しながら、先に進む。

〈万人講常夜灯〉
滋賀県甲賀市

 滋賀県に入った。
しかも甲賀市だ。猿飛佐助のふるさとだ。

司馬遼太郎の「風神の門」では、この甲賀の猿飛佐助と、伊賀の霧隠才蔵が、家康の命を狙って暗躍する。

子どものころには、伊賀の影丸や赤影などにあこがれて、厚紙で手裏剣を作って遊んだものだ。ふろしきで忍者の覆面をして、水の上を歩いたり、変身の術を使ったりすることを夢想するのが好きだった。

〈滋賀県に入った〉
田んぼには猿の群れ

 十楽寺をすぎて、山中一里塚跡あたりで右の田んぼを見ると、何か動いているものがある。猿だ。猿が2〜30で群れている。
田んぼの落穂を拾って食べているようだ。

喜多さんは、こういうときのためにパンを持ち歩いているので、早速投げてやったが、石でも投げられたと思ったらしく全員が逃げてゆく。

やはり、このあたりの猿は作物を荒らすので、邪険にされているのだろう。
人間を恐れて近づかない。

〈田んぼに猿が群れていた〉
猿の交通事故

 自転車で追い越していった、地元の青年らしい人が、この先の道路で何かを持ち上げている。

近寄ってみると、国道一号線のまん中で、まだ若い猿がはねられて死んでいた。
山のねぐらと、餌場の田んぼの間には、国道一号線が通っており、猿たちは、ひっきりなしに横断するものだから、犬や猫が交通事故にあうように、猿も交通事故にあってしまったのだ。

青年は、偉いことに道路の真ん中から、はねられた猿の首をつまんで、歩道にまで引き上げてきた。あのまま放っておいたら、あとから来る車に次々に引かれて、ぺちゃんこにされてしまうだろう。

〈猿が跳ねられた場所にあった碑〉
 しかし、運転する立場からすれば、猿がいきなり飛び出してくるのは危険極まりない。
急ハンドルでよければ、こちらが事故を起こす可能性があり、ここは跳ね飛ばしていくしかないであろう。

たぶん親か兄弟であろう猿が心配そうに近寄ってくるが、我々がいるためにそれ以上近寄って来れない。
口から血を流して死んでいる猿のそばに、パンのお供えをして、手を合わせてから、また続きを歩く。

かわいそうだが仕方がない。
何もしてあげられない。

〈第二名神工事中〉
蟹坂古戦場跡

 「蟹坂古戦場跡」の碑と説明板があった。

天文11年(1542)、伊勢の北畠具教(とものり)は、甲賀をめざして軍を進め、鈴鹿を越えて山中城を攻めさせた。山中城主の山中秀国はよく戦い、北畠勢を敗走させた。
北畠具教は、再度軍を増強し山中城攻略にかかったが、山中秀国は、近江守護の六角定頼に援軍を頼み、ついに北畠勢を破った。この合戦の主戦場がこの蟹坂であった。

とある。

戦国時代の城主は、いつ誰に攻めかかられるかわからない。
うかうかしてはいられない。
「桶狭間の合戦」や「姉川の合戦」などは有名だが、この蟹坂合戦は、歩いていなければたぶん一生知らなかったに違いない。

〈蟹坂古戦場跡〉

〈土山・春之雨 江戸より49番目の宿〉
広重の描いた田村川にかかる橋を渡る


 思えば、良い時期に東海道歩きを思いたったと思う。

この田村川にかかる橋も最近架けられたもので、数年前に歩いた人は、この橋を渡って田村神社に行くことはできなかった。

偶然とはいえ、ありがたく思いながら、ピカピカの橋を渡って田村神社へと向かう。

〈広重が描いた田村川にかかる橋〉
   
田村神社


 広重が描いた大名行列は、この橋を渡って田村神社に向かっている。

田村神社は、鈴鹿の盗賊を退治した坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を祀ってある神社で、大きな敷地に大木があるりっぱな神社であった。
   
 
〈田村神社の鳥居と参道〉 
   

〈道の駅 あいの土山〉          
 
  〈土山宿案内〉
かにが坂飴


 田村神社に参拝して、陸橋から見ると「かにが坂飴」を売っている店が見えた。
とりあえず、古くからの名物は買って食べて見ることにしているので、早速店に入ってみる。

非常に素朴な店で、売っているのはこれだけだ。
竹の皮に包み縄でしばったお土産用もあったが、シンプルな飴を購入する。
この飴は、麦芽だけで作った素朴な飴であまり甘くない。

〈かにが坂飴〉
 
〈かにが坂飴を売る店〉 
 
〈かにが坂飴の派手な看板〉
   
かにが坂飴の由来を尋ぬれば
 
太古の昔鈴鹿山麓に身の丈3メートルの巨大なかにが出没して旅行く人や近郷の住民に危害を加え、
万人を恐怖に陥れた時代が長く続いた。
 その間誰一人その魔怪を退治するものがなかったが、あるとき恵心院の僧都がこの地に赴き、おりしも
襲いかかろうとする大がにに印明を示し、更に大悲深く天台宗の往生要集を解き、説法を施すと不思議にも
大がにが随喜の涙を流して悪行を悟るがごとく、わが身の甲羅を八つに割り裂いてとけ失せた。
 僧都は八つの甲羅をねんごろに埋めてかに塚を建てると、またまた不思議にもかにの血がかたまりて、
八個の飴と化し、それを竹の皮につつんで里人に授け、「この八つ割り飴は諸々の厄除けに効あり」と伝えた。
その後、数百年にわたり「厄除けのかにが坂飴」として、世にその名声を高め、今日に至ったといわれる。

と、説明書きにある。
なるほど、だから本式の「かにが坂飴」は、八個を竹の皮につつんであるんだ。
それを知らずに、5〜60個も入ったお徳用を買ってしまった。
  
〈土山宿街道 ゴミひとつ落ちていない〉
  
〈ほとんどの家の玄関先にはタヌキの置物が〉
信楽焼の狸
 
 このあたりの街道は、ゴミ一つ落ちていない。地元の人がいかに大事にしているかが良くわかる。

喜多さんと二人で「いや〜、本当にきれいにしているね」といいながら、気持ちよく歩く。本当に歩いている間中、ゴミが落ちているのをまったく見かけなかった。なかなかできることではない。

ガイドで、この「うかい屋」は、東海道を歩く人のたまり場的店とあったので、是非寄ってみたかったが、先ほど道の駅「あいの土山」でそばを食べたばかりなので、泣く泣く通り過ぎた。

玄関先に狸の置物を置いている家がほとんどだ。信楽が近いから、各家庭で申し合わせて置いているのだろうか。きれいな道と家並みと狸の置物。これを見るだけで、この街道を歩く価値がある。

〈うかい屋 寄れなかった〉
土山宿本陣跡

 森鴎外の祖父は、津和野藩の典医であったが、参勤交代で国もとに帰る途中、文久元年(1861)この地で亡くなったという。つい、150年前の話だ。

土山本陣跡などを眺めながら、更に西を目指す。今日は水口宿まで行って、草津のビジネスホテルに泊まる予定だ。
本当は、この宿の街道沿いにある旅館にでも泊まりたかった。そのほうが続きを歩くのに絶対に有利だからだ。

まさか泊まれないことはないだろうと、たかをくくってこの土山の旅館に電話してみたら、ケンもほろろに空いてないといわれた。
どこか近くでほかの旅館の電話番号を教えて欲しいと頼むと、これまた面倒くさそうに「知らない」といわれた。何で、このオヤジはこんなに商売気がないのだ。と怒ってみてもしょうがない。

〈土山宿本陣跡〉
  
〈歌声橋と野洲川〉
  
〈日本橋から435km〉
痛恨の誤道

 そんなわけで、今日は水口石橋駅までたどり着いて、JRで草津まで行かないといけない。
地元に適当なやどが確保できなかったので、仕方なく草津駅前のビジネスホテルを予約したのだ。

だんだんと夕方になってゆく。気はあせるが、まだ4kmくらいはあるはずだ。。

しかし、その先の分岐点でで、痛恨の間違いをしでかした。
暗くなってきたので、地図がよく見えなかったせいもあるが、旧道と思って進んだ道がバイパスで、
行けどもいけども目的の目印がない。 

田んぼの道を歩き、一度はおかしいと正しい道に行きかけたのだが、暗いせいで確信がもてなかった。
一部は車がビュンビュンとばして通り過ぎる脇を歩いたが、すでにあたりは真っ暗になっていて引き返す気にもなれない。
途中で、さすがにこれは違うだろうと、バイパスから降りて勘を頼りに南に向かう。

地図は街道沿いのものしかないので、全体の位置関係が良くわからない。
どの道を行こうかと喜多さんと迷っていると、路線バスが目の前を左折した。行き先には「貴生川駅行き」と書いてある。
これだよ、このバスに乗ればいいんだよと思ったが、バス停は道路の反対側で乗る人もいないのでバスは無情にも通り過ぎてしまった。
急いで、バス停に駆けつけてみると次のバスは一時間後だ。タクシーもまったく走っていない。

意を決して、バスが走っていった方向に歩き始める。それから約30分歩き、やっと近江鉄道水口駅にたどり着いた。 
やはり、知らない道を暗くなってから歩くのは危険だ。
都会ならともかく、このような地方都市にはまずタクシーが走っていない。バスも一時間に1本あればいいほうだ。
それ以上に、道に迷ったときに昼なら太陽の位置とかで大体の方角がわかるが、それもおぼつかない。
道路名とか町の名前が表示してあっても、位置関係がわからない。

これに懲りて、帰ったら早速GPSを買いに行った。
GPSさえあれば、自分がいまどの道のどの場所にいるかが一目だ。
東海道を歩いて、今回のような心細い目にあったのは初めてだったが、何とか草津のホテルにたどりついてチェックイン。
草津温泉

 フロントで、草津温泉という銭湯が近くにあるのでと、割引券と石鹸を渡される。
石鹸?と思ったが、持っていってよかった。
風呂には石鹸がまったく置いてなかった。

いつも行っている近くのスーパー銭湯は、シャンプーもボディーシャンプーも完備されているので、ついどこもそうだろうと思ってしまうが、学生時代に行っていた銭湯も確かに自分の石鹸やシャンプーを持っていっていた記憶がある。


〈これが草津温泉〉
 草津という名前で、群馬の草津温泉と間違えてくる人がたまにいるらしい。
温泉の場所を聞かれた駅員さんは、この草津温泉を紹介してあげるらしいが、弥次さんも人もことは笑えない。
20代半ばまで、やはり温泉で有名な草津は、この滋賀県の草津だと思い込んでいたからだ。
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