〈二十三日目〉 平成19年 11月23日 金曜日 晴れ 桑名宿〜四日市宿
【第42次 桑名宿 その手は桑名の焼はまぐり】

〈桑名・七里渡口 江戸より42番目の宿〉
桑名・七里の渡し跡


 前回、宮宿の七里の渡しにたどり着いてから、2ヶ月がたとうとしていた。

その間、会社の机の前に飾った東海道手ぬぐいを眺めながら、今度はいつ続きを歩くか考えていた。

〈桑名・七里の渡し跡〉
 何しろ今度は三重県を歩くのだ。そう簡単に出かけてこれる距離ではない。

交通費が結構かかるので、できたら3連休に続けて歩けたらと思っていたところに、山口に住む弟から電話があった。

〈揖斐川河口の七里の渡し周辺〉
 母親と姉夫婦で京都に遊びに行くので、よかったら来ないかというもので、ちょうど桑名から歩くつもりでいたので「渡りに船」だ。
七里の渡しで船を待っていたら、ちょうどよい船が急に出ることになったようなものだ。

まだ、泊まるところは決めていないというので、早速ネットで旅館を手配してみたが、さすがに秋の紅葉シーズンの京都はどこも満室で、泊まれる旅館はありそうにない。
それでもあきらめずに周辺を探してみたら、琵琶湖湖畔の雄琴温泉に泊まれる旅館を一部屋だけ見つけた。

〈桑名宿 渡し跡付近〉
 この際、贅沢はいえないので5名一部屋で予約した。
その後、弟の息子が兵庫県にいるので連れて行くという。
ま、みんな家族だし、狭いながらも楽しい旅館ということで、6名一部屋で宿泊することにする。

弥次さんは、3連休の初日は桑名から四日市まで歩き、夕方雄琴温泉で家族に落ち合い、翌日は家族と別れて、四日市から関まで歩くつもりで行程を組んだ。

そしたら、何とみんなも四日市に一緒に泊まりたいという。
それならと、弥次さんが泊まることにしている、四日市のビジネスホテルに全員の部屋を確保した。

〈七里の渡し 一の鳥居〉
 そういうわけで、今回は変則の東海道歩きとなった。
今回は、喜多さんは友達と伊豆に行くので同行しない。

新横浜6時11分の「のぞみ」で名古屋へ、名古屋から近鉄名古屋線に乗り換え、桑名駅へ8時に到着。

七里の渡しまでの約1kmをあるいてからスタートする。
ちょうど2ヶ月前にたどり着いた宮宿の七里の渡しから船で着いたかっこうだ。

かつては、この場所に宮から海上七里を運ばれてきた旅人が、にぎやかに降りたったことだろう。
どこもそうだが、かつての海は埋め立てられ、広重の絵の面影はない。


〈七里の渡し石碑〉
その手は桑名の焼き蛤

 桑名といえば「焼はまぐり」。
本物の弥次郎兵衛と喜多八も、無事の上陸を祝って名物の焼はまぐりで酒をくみかわしたのち、ここを出発している。

焼蛤は、方形の囲炉裏のようなものに蛤を並べ、松かさをつかみこんでくべ、あおりたてて焼くのだという。

朝早くて、食堂も開いていなかったが、今は高級品で料亭に行かないと桑名産のハマグリは食べられなくなっているらしい。

〈はまぐり食堂〉
青銅の鳥居

 ということで、「その手は桑名の焼はまぐり」はあきらめて先を歩くと、右手にめずらしい青銅でできた鳥居があった。

ガイドには、鋳物業の町として栄えた桑名のシンボルだと
ある。

〈桑名宗社の青銅の鳥居〉
ミニ東海道五拾三次

 その先には、「歴史を語る公園」というのがあり、日本橋から三条大橋まで2〜3分で歩くことができるらしい。
日本橋を出発して10秒も歩けば、右手に富士山が見えてきた。
富士山をひとまたぎして数十メートルでもう京都三条大橋に到着だ。
これは楽でいいけど、あまりにも安易すぎないか?
〈日本橋〉                      〈富士山〉                               〈京・三条大橋〉
 このあたりは、東海道の道順を教えてくれる道標が多く、街道歩きの旅人にはやさしい町だといえる。
きっと旧東海道をたずねて歩いている人が多いのだろうと思う。
〈東海道を教えてくれる道標が多い
天武天皇社

 右に神社があったのでのぞいて見ると「天武天皇社」とある。
「壬申の乱」(なんだか日本史の授業みたいで懐かしいですね)の際、当時は大海人皇子(オオアマノオオジまたはオオアマノミコ)と呼ばれた後の天武天皇が、一時ここに潜伏したのだという。

東海道を歩いて、壬申の乱に出会うとは思わなかった。
やはり伊勢の国は、奈良・京の都に近いからこのような史跡も当然ある。

673年、飛鳥淨御原宮(アスカキヨミハラノミヤ)で、天武天皇は即位する。
「天皇」は天武天皇が初めて使った称号で、天の中心にある北極星を神格化したものとされているのだそうだ。勉強になるね。

〈天武天皇社〉
馬つなぎ輪

 このあたりは、高いビルもなく昔の家並みが残っているので歩いていても気持ちいい。
右手に格子戸のある家があるが、下部に鉄の輪っかがつくってある。どうも昔は馬をつないだらしい。

今でこそ馬といえばJRA日本中央競馬会のサラブレッドであるが、弥次さんがこどものころの昭和30年代はまだ時々仕事で使う馬を見る機会があった。
特に田舎の実家では、山林から木材を搬出するのに馬を雇っていた。
もちろん馬を直接雇うわけにはいかないから、馬を飼っている馬方さんを雇うわけである。
だから、子どものころ自分の家の馬ではないが馬が自宅にいて、その馬の背に乗せてもらったこともある。

〈馬つなぎ輪のある家〉
矢田立場跡

 突き当りを左に折れる道を進むのだが、カドに時代劇で見たような半鐘が吊るしてある火の見やぐらがあった。
もちろん復元されたものだが、愛知県と違い三重県には歩く人を楽しませてあげようというエンタテインメント性があるのではないか。

東海道などは、これからの大量の定年退職者を視野におき、ディズニーランド化すべきだろうと思う。街道には、このような復元の小道具を多く置き、食堂・レストラン・みやげ物屋の類は、江戸時代のふん装で出迎えるのだ。
旧東海道沿いは、歩く人に楽しんでもらえるよう、あらゆる工夫をする。ごまのはえや雲助も雰囲気を盛り上げる。まあ、街道全体が日光江戸村だと思えばよい。

海外からも観光客がどっと押し寄せるに違いない。

〈矢田立場跡 火の見やぐら〉
員弁川を渡る

 法律で、旧東海道沿いに住む人は「ちょんまげ」を結うこと、などと決まれば面白いであろう。
前に伊賀だか甲賀だかの議会では、全員が忍者の服装で出席するというのをテレビで見たことがある。このくらいのしゃれが欲しいところである。

冗談はさておき、火の見やぐらの道をまっすぐ行くと川に突き当たるが、今はその位置に橋がないので、少し左に迂回して川を渡る。

このあたりの風景は本当にほっとする穏やかさがある。
山には雪が見え、川では白鷺がえさをあさる。

〈員弁川〉
力石

 関西本線や近鉄名古屋線に沿って、「朝日駅」「近鉄富田駅」を過ぎた先に「力石」というのがあった。

力石は、別のところでも見たが、昔の若者は今みたいにいろいろな娯楽がないものだから、力比べでもするしかなかったのだろうと思う。

当時の若者は、テレビゲームも携帯電話も知らないから不満には思わなかっただろうが、現代の子どもとどちらが幸せかというと一概には言えない。

〈力石 これを持ち上げて力比べをしたのだろう〉
なが餅とは

 海蔵橋を渡ったあたりで、昼食時になったのでラーメン屋さんに入る。どうも一人のときはラーメンばかり食べているようだ。
レジで精算したときに、ギョーザの無料券をもらったがもうしばらくはこの道を歩くこともないと思うから、隣の席で食べていた
作業服の若者にあげてまた歩き始める。

すると右手に長餅で有名な「笹井屋」があったので、これから雄琴で落ち合う家族用と横浜へのお土産に購入する。

この長餅は、文字通り長く延ばした餡入りの餅で、
400年前藤堂高虎が足軽与兵衛といっていたころ、青雲の志を抱き日永の里に到り
、なが餅の美味に舌鼓し、吾れ武運のながき餅を喰らうは幸先よしと大いに喜び、後年津三十六万石の太守に転封されたとき、
笹井屋彦兵衛を召されて先年の礼を厚く遇された
云々・・・となが餅のしおりにある。

〈なが餅の笹井屋 ただし本店ではなかった〉

〈これが笹井屋のなが餅〉
【第43次 四日市宿 日永の追分と杖衝坂】

〈四日市・三重川 江戸より43番目の宿〉
 この広重の絵の場所は、笹井屋の手前の三滝橋あたりから海を臨んだ風景らしいが、今はまったく面影すらもない。

手前では風に飛ばされた笠を大慌てで追いかける町人風の旅人、細い橋を渡る渡世人風の旅人の合羽も風になびいている。

長餅はこちらの笹井屋が本家らしいのだが、先に新店で買ってしまったので横目で見て通り過ぎることにする。

〈こちらが400年続く本家笹井屋〉
 このあと、旧東海道がなくなっている案内を見て四日市駅に向かう。
大津の雄琴温泉で久しぶりに家族と落ち合うためだ。

かつての東海道は、区画整理されて今はビルになっている。

さらにその先の東海道は、アーケードの商店街だ。

このあと、JR四日市駅から関西本線で柘植駅へ、さらに草津線に乗り換え草津経由で京都山科へ、それから湖西線に乗り換えおごと温泉駅に予定通り着いた。

朝、横浜を出発して桑名から四日市まで歩いて、そのあと電車で滋賀県までやってきた。一日は長い。
      
〈東海道は区画整理されなくなっている〉            〈このあたりはうれしい標識があちこちにある〉        〈旧東海道がアーケード街になっている〉
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