〈22日目〉 平成19年(2007)9月30日 日曜日 曇り時々雨 池鯉鮒宿〜鳴海宿〜宮宿
【池鯉鮒宿続き】
知立神社

 朝7時にホテルを出発した弥次喜多道中は、ホテルの裏手の旧東海道を西に向かう。

左手に知立城跡を見て、その先にある知立神社に立ち寄ってみる。ずいぶん立派な神社で重要文化財となっている多宝塔があった。境内にはにぎやかな色をした鶏が徘徊していて、おじさんがえさをやっていた。

〈きれいな鶏がいた〉
 この知立神社は、嘉祥3年(850)天台宗の僧、円仁が建立したとある。現在の神社は永正6年(1509)重原城主山岡忠左右衛門が再建したものだというが、この多宝塔は、嘉祥3年(850)に建てられたもので、なんと1200年近く経っているという。

重要文化財に指定されるのは当然で、いつまでも残ってほしいと思う。

〈重要文化財 知立神社の多宝塔〉
逢妻橋

 知立神社を出た弥次喜多道中は、逢妻川にかかる「逢妻橋」という意味ありげな橋を渡り国道一号線に合流。その先の配送センターのところから国道を外れ右の旧道へ。国道下のトンネルを通って敷島パンの工場を過ぎると橋があった。

喜多さんは「PASCO」ブランドがこの敷島パンだということを初めて知った。歩いていると、歴史だけでなく些細なことの勉強にもなる。

〈逢妻橋〉
三河と尾張の境橋

 ところで、この橋は三河と尾張の境となる境川にかかる橋である。ついに尾張の国に入った。橋を渡り終えた左手に藤原光広の歌碑があった。

うち渡す尾張の国の境橋これやにかわの継目なるらん


かつてはこの橋は、尾張側が木橋、三河側が土橋の継橋であったという。このことを接着剤としての「にかわ」と「三河」をかけて詠んだものである。

〈境橋 手前が尾張〉
 橋のたもとの案内板には、「狂歌集、古今夷曲集が刊行された寛文6年(1666)当時の境橋は、尾州側は木橋、
三州側は土橋のいわゆる継橋として有名であった。詠み手は京都烏丸に邸宅のあった権代納言正二位、藤原朝臣
光広卿で俗に烏丸殿と称せられた。
(豊明市観光協会)とある。

これで、2か月前に二川宿の手前で、遠江と三河の境となる小さな川を越えてから、また違う国へと入ってきた。
武蔵、相模、伊豆、駿河、遠江、三河、尾張と東海道を歩き始めてから7つ目の国だ。♪思えば遠くへ来たもんだ・・・
と武田鉄矢の声が聞こえてくるような気がする。感傷にふける間もなく、豊明駅を過ぎると「阿野一里塚」の大きな
看板が見えてきた。これほど大きな看板を掲げているということは、これはかなり観光資源として力を入れている
ということであろう。
阿野一里塚

 想像していたよりは地味な感じの一里塚であったが、復元して盛り土をした立派な一里塚ではなく、昔からの本物が残っているからこそ国指定史跡となっているのだろう。

どうも我々は立派に復元したわざとらしい史跡をありがたがる傾向がある。徒歩での東海道の旅が廃れてから、ということは鉄道が敷かれてから百数十年経つわけで、その間に一里塚などは何の用もなさなくなっていた。だから、ほとんどの一里塚は壊され、邪魔にされ、打ち捨てられてきたわけだが、こうして当時のままとは言えない姿でも、手を加えないまま残っているだけ貴重だということだろう。

〈阿野一里塚〉
 この一里塚は江戸から86里目となる。ということは、約335kmを歩いてきたということになる。

でも残りはあと160kmもあるということだ。がんばって先に進むとしよう。

〈こういうのが本当の歴史遺産〉
桶狭間古戦場

 名鉄中央競馬場前駅の手前に、本日のハイライトの「桶狭間古戦場伝説地」や「今川義元の墓」があり国指定史跡となっている。

永禄3年
(1560)信長が今川軍の十分の一以下の兵力でこの桶狭間に義元を急襲し、見事勝利を挙げたという話しは、いままでいろいろな歴史の物語で何度も読み聞きしている。それがこの場所だったかと、桶狭間古戦場に立って感慨にふける。

〈桶狭間古戦場跡〉
今川義元の墓

 歴史に「もし」ということはない。実際に起こっているのだし、その事実があったからこそ現在のわれわれが存在している。しかし、もしこの桶狭間の合戦で信長が逆に討たれていたら、日本史はどうなっただろうか。

信長がいなければ、秀吉も光秀を倒した功を誇り、天下人になれなかったかもしれない。家康はもっと早く天下を取ったであろうか。それとも群雄割拠の戦国時代がもう少し永く続いていただろうか。

〈今川義元の墓〉
七石表

 この七石表とは説明板によると、

『今川義元の戦死した場所を明示する最も古いものである。元来塚のみであったが。明和8年(1771)12月鳴海下郷家の出資により人見弥右衛門黍、赤林孫七郎信之によって建碑された。
北面 今川上総介義元戦死所
東面 桶峡七石表乃一
南面 明和八年辛卯 十二月十八日造』
とある。

〈七石表の一〉
 江戸時代中期に、義元の死んだ場所には簡単な塚しかなかったので、それを惜しんで鳴海の篤志家が石碑を建立したらしい。

とにかく戦国期のエポックメイキング的な戦いであったことだけは間違いない。また信長は桶狭間以後、敵に倍する兵力をそろえないと合戦はしなかったという。いかに肝を冷やしながらのギャンブル的な戦いであったかを、本人がよく知っていたということであろう。

〈桶狭間古戦場説明板〉
【第40次 鳴海宿 有松絞り・鳴海絞りで有名】

〈鳴海・名物有松絞 江戸より40番目の宿〉
有松に入る

 歴史の余韻にひたりながらさらに西を目指す。

もともと有松のあたりは樹木が生い茂る大変さみしいところであった。ときには追い剥ぎや盗賊が出没するという危険もあったことから、この有松に間の宿が設けられることになった。
(山と渓谷社 東海道を歩く)

〈鳴海・有松の古い家〉
 そういう生い立ちで宿ができた有松であったが、この宿の家並みは素晴らしい。

のちに関宿も歩いたが、個人的には関宿よりもよかった。つくられていない自然体の江戸時代の街並みが残っている感じだ。

〈有松 入り口〉
有松絞りと山車が有名

 名物は「有松絞り」と「有松祭りの山車」だ。有松山車会館があったので見学したかったが、喜多さんがやめておこうという。弥次さんは、基本的に街道沿いのすべての資料館・美術館は見ていこうという主義なのだが、喜多さんはタダなら見ていこうという主義なのだ。

毎年10月第1日曜日に開催される有松祭りでの山車は見事なものらしい。それぞれの山車の上にからくり人形が乗せられ芸を披露するということだ。

〈有松の街並みと山車会館〉
 街道を歩いていたら、祭りの準備をしていた地元のおじさんに声をかけられた。「来週は祭りだから、来週またおいでよ」と。来たいのは山々だが、こんなに遠くに2週連続で来るのも経済的にちょっと・・・

島田宿の奇祭「帯祭り」も確か10月にあったはずだし、この有松の祭りも東海道を歩き終わったら、また絶対に来てやるぞ・・・と弥次さんはひそかに心に誓ったのであった。

〈ちゃんと人が住んでいる〉
 有松鳴海会館で有松絞りを売っているので入ってみる。確かに、絞りというのは手間がかかっていて、きれいなのはわかるのだが、ふと何に使えばいいのと思った時に、これは困る。

手ぬぐいにしてもお土産にいいなとは思ったが、もらったほうはどう使えばいいか困るであろう。これはそうだ。京都の西陣織のお土産に似ていると思った。

〈絞りにもいろいろある〉
 中学校の修学旅行で京都に行ったときに、母親に西陣織の財布を買って帰ったことがある。京の舞妓さんの姿が織り込んであるピンク色の財布だったと思う。見た目にはすごくきれいなのだが、普段使いに使えるかというと、大人になって考えれば、あるいは考えなくてもこれは使えそうにない。

タンスにしまい込まれたまま、一度も使われていないと思う。あれから37年経ったが、今でもタンスの中にしまわれているのだろうか。そんなわけで、ネクタイとかいろいろ見たが、特に購入にはいたらず、有松絞り会館をあとにした。

〈屋根や格子戸の魔よけ?〉
井桁屋

 その先に、渋いつくりの家が見えてきた。「井桁屋」という有名な有松絞りの店らしい。中に入ってみると、明治時代パリ万博に出品した時の記念品などが飾ってある。喜多さんの若かりし頃の振袖は、総絞りの結構いいものらしいが、もしかしてこの有松で絞られた着物かもしれない。

前にテレビでやっていたが、この絞りというのはおばあさんが一つ一つを糸でくくり、絞り作業が終わると染めの作業は別の専門家が行う、大変手間のかかる技術で、これは高くても仕方ないなと思わせるに十分であった。井桁屋でも、喜多さんが端切れを買っただけで、特に購入しなかった。ひとつひとつはきれいなのだが、やはり家の中のどこに使おうかと思った時に思い浮かばなかったということだろう。

〈井桁屋〉
笠寺一里塚

 鳴海宿を出た弥次喜多道中は、鳴海駅の先を右に折れ、天白橋を渡り、笠寺の一里塚に着いた。この一里塚には、りっぱなケヤキの古木が植えられている。

これほどの大木の一里塚は、東海道でも1〜2番だろう。


〈笠寺一里塚〉
笠寺観音

 その先の笠寺観音に参拝する。『笠寺観音と玉照姫の歴史』の説明板によると

開基『呼続(よびつぎ)の浜辺に流れ着いた霊木が、夜な夜な不思議な光を放ち、人々はそれを見て恐れをなした。近くに住んでいた僧・善光上人は夢のお告げを受け、その霊木を彫って十一面観世音菩薩の像を作った。上人は寺を建て、そこに観音像をおさめ、その寺を「天林山 小松寺」と名づけた。天平八年(736)のことである。』とある。ずいぶんと古い寺みたいだ。

〈笠寺観音〉
玉照姫と観音様

その後、約二百年の歳月が流れ、小松寺は荒廃、お堂は崩壊し、観音様は風雨にさらされるようになってしまった。ここに一人の美しい娘がいた。彼女は鳴海長者・太郎成高の家に仕えており、その器量をねたまれてか、雨の日も風の日も、ひどくこき使われる日々を送っていた。ある雨の日、ずぶぬれになっていた観音様の姿を見た彼女は、気の毒に感じ、自分がかぶっていた笠をはずして、その観音様にかぶせたのであった。その縁か後日、関白・藤原基経公の息子、中将・藤原兼平公が下向のおり、長者の家に泊まった際にその娘をみそめ、自分の妻として迎えようと決心した。兼平公の妻となった娘は、それから「玉照姫」と呼ばれることとなった。

〈笠寺観音多宝塔〉
 この観音様の縁によって結ばれた玉照姫・兼平公ご夫妻は、延長八年(930)、この地に大いなる
寺を建て、姫が笠をかぶせた観音様を安置した。このとき寺号も小松寺から「笠覆寺
(りゅうふくじ)
に改めた。これが「笠寺観音」「笠寺」の名の由来である。以来、笠覆寺は縁結びや厄除けの寺と
して、多くの人々の信仰を集めることになる。


ということらしい。ディズニーの「シンデレラ」とかを思い起こさせるようなそんな話である。
【第41次 宮宿 熱田神宮と七里の渡し】
裁断橋

 線路に沿った道沿いに歩き、「桜駅」「呼続駅」を過ぎて、山崎川を渡るともう宮宿は目の前だ。「裁断橋跡」の碑があったので、立ち止まって説明を読んでみる。

裁断橋は、豊臣秀吉の小田原攻めに参加して18歳で戦死した息子の冥福を祈るため、母親がお金を出してかけた橋だという。今も昔も、わが子にかける思いは同じだ。子どもだけが、親の心を知らないのは、これも今も昔も同じということか。

〈裁断橋跡の碑〉
都都逸発祥の地

 またすぐとなりに、「都都逸(どどいつ)発祥の地」というなんだか渋そうな石碑があった。弥次さんは、50歳を過ぎてしまったおじさんだが、やはりビートルズやピンクフロイドなどのロックや、拓郎やかぐや姫などの音楽のほうが好きなので、都都逸については特に感想はない。

名古屋に住んでいる高校の同級生から「蓬莱軒」のひつまぶしはおいしいと聞いていたので、是非にと思ってたどり着いたのに、非情にも2時半から4時半まで休業になっていて、3時ころ着いた弥次喜多道中は、名物のうなぎを食べられなかった。

〈都都逸発祥の地の碑〉
七里の渡し

 残念無念と思いながら、仕方がないので「宮の渡し公園」に向かう。突き当りが公園になっており、ここが「七里の渡し場跡」である。やっと七里の渡しだ。

江戸時代の旅人の大多数は、この渡し場から船に乗り、桑名まで海上七里を歩かずに船で移動した。中には船が苦手で、船酔いで苦しむくらいならと「佐屋街道」と呼ばれる陸路を歩いた人もいるらしいが、本当の東海道はこの海上七里なのだ。実際には、潮の干満により海上十里になったこともあるらしい

〈ここから海上七里を桑名まで船が出た〉
 日本橋を出立して、武蔵・相模・伊豆・駿河・遠江・三河・尾張と七つの国を歩いてきた。とりあえず弥次さんにとって、陸路の突き当たりに思えるこの七里の渡しがまず一つの到達点のような気がする。喜多さんと写真を撮り合って、無事の到着を分かち合う。

この渡しの七里先には、伊勢の国桑名があるのだ。さすがに三重県は感覚的に遠く感じる。愛知県までは、帰省の際にたびたび通っているし、名古屋も何度も訪れているから、あまり遠くには思えない。しかし、この先は今までの人生であまり縁のなかった三重県だ。知らない町の知らない道を歩く楽しさをこの次は三重県で味わえる。

〈七里の渡し跡・時の鐘〉

〈宮・熱田・熱田神事 江戸より41番目の宿〉
熱田神宮

 子どもも待っていることだし、横浜の我が家に帰らなければいけないのだが、せっかく熱田神宮の宮宿に来たのだから参拝して帰ることにする。さすがに草薙の剣が祭られている熱田神宮は、神霊を感じるうっそうとした森に囲まれており荘厳さを感じる。

ゆっくり参拝したいのだが、雨も降っていることだし夕方で薄暗くなってきた。あまりゆっくりもできず名古屋駅に向かうことにする。

〈熱田神宮の鳥居の前で〉
 5時過ぎの「のぞみ」で新横浜へ。名古屋駅で、「エビフリャー」と「味噌カツ」の駅弁とビールを買ったが、新横浜まではわずか1時間半だ。

あまりくつろぐ時間もなく、あわただしく横浜線に乗り換えて我が家に到着。これで、当分東海道歩きはお休みになるだろう。

〈熱田神宮 草薙の剣を見てみたい〉
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