〈18日目〉 平成19年(2007)7月21日 土曜日 雨 浜松宿〜舞坂宿〜新居宿〜白須賀宿〜二川宿 | |
【第29次 浜松宿 空襲で焼かれほとんど史跡は残っていない】 | |
〈浜松・冬枯ノ図 江戸より29番目の宿〉 |
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浜松宿続き 約1か月ぶりの東海道歩きの旅だというのに、朝からかなり強い雨が降っている。天気予報では降水確率30%だというから、運がよければ振られないで済むかもと思って出かけてきたのだがとんでもない話であった。 この日は久しぶりに青春18きっぷが使えるので、交通費を節約するために磯子駅で18きっぷを買って JRに乗る予定だった。 |
〈浜松・梅屋本陣跡 国学者賀茂真淵は梅屋家の婿養子だった〉 |
しかし磯子駅について緑の窓口で18きっぷを買おうとしたら6時にならないと開かないという。仕方なく小田原まで 820円のきっぷを買った。小田原では6時を過ぎているので、小田原駅で18きっぷを買おうという魂胆だ。でも小田原 駅に着いたら気持ちが変わり、今日は新幹線で浜松駅に向かうことにした。たまには贅沢をしても許されるであろう。 ついでに帰りのために18きっぷも買っておく。浜松までの新幹線代5,350円と18きっぷ代11,500円を小田原駅の緑の 窓口で支払う。 |
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ホテルクレタケ
さすがに新幹線は速い。予定よりずっと早く浜松駅に到着したが、浜松駅に着いた時にはそれほどでもなかった雨は、歩き始めてすぐに本格的な降りになってきた。あまりに降り方がひどくなってきたので、雨宿りがてら通りすがりのデニーズに入って朝ごはんを食べることにする。 この場所はたしか・・・そう、何年か前に姪の結婚式の際泊まった「ホテルクレタケ」の前であった。あの時は披露宴が終わったあと、母も兄弟姉妹もみんなで浜松駅まで歩いて居酒屋で楽しく団らんしたのだった。帰りもみんなで歩いてホテルまで帰ったけど、まさか何年かのちに同じ道をこうして京都に向かって歩いているとは想像できるはずもない。 |
〈結婚式で泊まった翌日母親と弟で寸又峡へ遊びに行った〉 |
二つ御堂 このあたりは空襲で何もかも焼けたらしく、古い時代のものはほとんど何も残っていない。本陣も、高札場も、一里塚もそれぞれ標柱や案内板がさびしく立っているだけだ。若林一里塚跡の先に「二つ御堂」がある。 『奥州平泉の藤原秀衡の愛妾が京へ行く途中で秀衡死去の知らせを受け、その菩提を弔うために街道の北側に御堂を建てたあとに、悲しみのあまり死んでしまった。ところがこの訃報は誤りであり、この場所を通った秀衡は、愛妾を偲んで向かいの南側に御堂を建てたという。』 |
〈こちらは愛妾がたてたという阿弥陀堂〉 |
【第30次 舞坂宿 海上一里を新居宿へ渡る】 | |
舞坂の松並木 うちの喜多さんは今回の街道歩きはパスと決めていた。このあたりは見どころがほとんどないことをネットで調べて知っていたのだ。 雨が降っていなければ浜松城にも寄ってみたかったが、先を急ぐことにする。あまり見どころもなく雨の中をひたすら歩いてきたが、舞阪宿に近づくと立派な松並木が見えてきた。この松並木は330本も残っているという。脇本陣も復元されて公開されているらしいが、気づかずに通り過ぎてしまった。今度来た時に是非寄ってみようと思う。 |
〈舞阪の松並木〉 |
〈舞阪・今切真景 江戸より30番目の宿〉 |
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浜名湖の今切
浜名湖はかつては閉じた淡水湖であったが、室町時代の大地震により陸が割れて、外海とつながってしまった。そのためこのあたりは「今切(いまきれ)」と呼ばれるようになり、旧東海道は陸上を歩かず、海上一里を舟でわたるようになったという。 |
〈雨の浜名湖 今切〉 |
この街道の両側に残る石垣は、1700年ころからのものだそうで、番人が六尺棒を持って立っていたという。目に浮かぶようではないですか。
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〈1700年ころから残る石垣〉 |
〈史跡 北雁木(がんげ)1600年代の渡船場跡〉 |
〈あいにくの天気で浜名湖も霞んでいる〉 |
浪小僧
雨のため、せっかくの浜名湖の景色がくすんで見える。松並木の終わるあたりに金色の子どもの像があったので説明を読んでみる。 |
〈浪小僧〉 |
【第31次 新居宿 江戸時代の関所が今も残る】 | |
〈新居・渡舟ノ図 江戸より31番目の宿〉 |
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新居の関所跡 というわけで、平成の旅人は舟の代わりに電車に乗って、舞阪から新居宿に向かう。ここで帰りに使うつもりだった青春18きっぷを使い、隣の新居駅で降りた。 相変わらずの雨が降っているが、新居駅を右にしばらく歩くと「新居関所跡」にたどり着く。 |
〈この場所に渡し舟は着いていた〉 |
雨が降っているせいか観光客はまったくいない。貸し切りの見学だ。 新居に関所ができたのは慶長5年(1600)で、最初は今切口の近くにあったが、地震や津波の被害を受けたために移転を繰り返し、現在の場所になったのは宝永5年(1708)からであったという。 |
〈新居の関〉 |
現在残る遺構は安政2年(1855)のもので、当時の関所の建物がそのまま残っているのはこの新居宿の関所跡だけである。 さっそく入場料を払い関所の建物に入ってみる。約150年前の建物で、旧東海道沿いにはこれよりも古い建物はいくらでもあるが、関所としての役目を終えたあとは取り壊される運命だったのかもしれない。 今は埋め立てられているため海までかなり遠いが、明治以前まではこの関所の前に舞阪を出た舟が着いていたのだ。
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〈箱根の関所よりリアルに作ってある〉 |
旅籠紀伊国屋資料館
関所のすぐ先に「新居宿旅籠紀伊国屋資料館」がある。入場料が関所のチケットに含まれていたので、とりあえず入ってみる。 |
〈旅籠紀伊国屋資料館〉 |
雨は振りやむ気配もない。雨が降っている日は注意力が散漫になり、道を間違えることが多い。あとで地図を見ると「風炉の井」という井戸跡があったはずだが見逃してしまっている。 松並木が続く田舎道を歩いていると、雨にも関わらず団体で歩いている人たちに出会った。弥次さんと同世代の女性たちが興味深そうに見ているが無視して追い越していった。まさか、日本橋から歩いてきた旅人とは思わなかったであろう。 |
〈白須賀宿に入る〉 |
【第32次 白須賀宿 潮見坂を上る】 | |
〈白須賀・汐見阪図 江戸より32番目の宿〉 |
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潮見坂 この先で右折して坂を上るとそれが「潮見坂」である。京から江戸に下る道中では、初めて太平洋を見る場所になる。 広重の絵では大名行列が潮見坂を下っているが、それがこの坂だ。坂の上から振り返ってみたが、残念なことに雨で煙っていたために太平洋はまったく見えなかった。 |
〈雨の潮見坂〉 |
おんやど白須賀 急な潮見坂を上り切ったところに無料休憩所の「おんやど白須賀」があったので、雨宿りを兼ねて立ち寄ってみる。 となりの潮見坂公園跡は、徳川家康がここに茶室を造り、織田信長をもてなしたところという。今は中学校になっているらしい。 |
〈雨で煙って海は見えない〉 |
県境の境川
「おんやど白須賀」で少し休憩したあと、事務所のおじさんに二川(ふたがわ)駅までの距離を聞くとまだ8kmくらいあるらしい。 うんざりしたが仕方がない。この宿は鉄道の駅から遠く離れているために、バスかタクシーに乗るかもしくは歩くしかない。しかもバスもタクシーもまったくいそうにない。覚悟を決めてまた雨の中を歩き始めた。 しばらく歩くと見逃してしまいそうな小さな川がある。名を境川という。 |
〈静岡県と愛知県の県境の川〉 |
この境川は遠江と三河の国境を流れるびっくりするほど小さな川だ。この川を越えると、5か月かけて歩いてきた静岡県ともやっとさよならだ。この境川を越えると愛知県に入るのだ。 |
〈やっと愛知県に入る〉 |
何はともあれ、静岡県を歩きとおしていよいよ愛知県に入った。しかし安心したのもつかの間。このあと とんでもない間違いをおかしてしまう。国道1号線にぶつかる手前で道を間違えてしまった。まっすぐ行けば よかったのに右に折れてしまい、おかしいと思いつつ1.5kmほども先まで行ってしまったのだ。雨はやまな いし、どんどん夕暮は近づくし、心細い思いをしながらやっと間違いを確信し元の道に戻ることにした。車 だとあっという間の道も、歩くとなれば大変な距離だ。悔しい思いをしながら間違えたところまで戻り、国道 1号線をひたすら二川駅に向けて歩く。 ガイドにも「二川宿へは国道1号線をひたすら歩き続ける」と書いてあったが、店も何もない国道を車と一緒 に歩くのは本当につまらない。いい加減いやになったころにやっと新幹線の高架が見えてきた。 これをくぐったところが二川宿になる。 |
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【第33次 二川宿 やっと愛知県 立派な本陣が残る】 | |
休憩所に若い警官がいたので、駅までの距離を聞いたらすぐそこですという。「どちらから来られましたか」 と聞くので、「浜松から歩いてきた」と言ったらあきれた顔をしていた。弥次さんも道を間違えて頭に来ていた から、ここはひとつ文句を言っておこうと思い、「愛知県は道案内が少なくて不親切だよね。静岡県は親切な 案内板や標識があちこちあるのにね。」といやみを言ってやった。若いおまわりさんにいやみを言っても仕方 ないのに、言わずにおれないほど悔しかったのだ。おまわりさんも「いや〜、そうかもしれませんね。静岡県は 裕福だけど、愛知県はお金がないから・・・」などとそれらしい言い訳をする。 愛知県には世界のトヨタ自動車があるではないか・・・。 ・・・・そうか、だからだ。トヨタを擁する自動車中心の県だからこそ、車のための標識は整備されているのに、 歩く人のための標識はほとんどないんだ・・・と妙に納得して二川から18きっぷで横浜に帰ることにした。 本当に疲れた一日だった。間違えた道の距離を含めるとたっぷり30kmは歩いた。しかも、一日中雨に降られ、 ずっと傘をさして歩いたのだ。 ま、こんな日もあるだろう。 |
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