〈十七日目〉 平成19年 6月23日 土曜日 曇り 袋井宿〜見附宿〜浜松宿
【第27次 袋井宿 江戸からも京からも27番目 東海道どまんなかの宿】

〈袋井・出茶屋ノ図 江戸より27番目の宿〉
袋井宿続き

 弥次さんは、3時半に起きて磯子駅まで歩き、4時48分の始発に乗り込んだ。

大船で5時10分の熱海行きに乗って、さらに島田で乗り換え8時36分に袋井の駅に到着。

前回、この袋井宿に着いてから2ヶ月半という月日が経っている。
その間に、やっと喜多さんと一緒に箱根越えを果たしているが、本当に久しぶりの東海道の旅だ。

〈袋井の松並木〉
 袋井駅のコンビニで朝食を仕入れる。

浜松の近くにふさわしく、うなぎのおにぎりがあったので早速買ってみた。


そのうなぎのおにぎりを食べながら、橋を渡りまっすぐに旧東海道に向かう。

〈これより袋井宿〉
家康の腰掛石

突き当たりの袋井宿場公園で写真を撮り左に進む。
この辺りは袋井宿の西のはずれだ。


2キロほど歩くと、右手に「許禰(こね)神社」がある。この辺りは木原畷(きはらなわて)古戦場跡である。
ここは徳川家康と武田信玄が小競り合いを繰り返したところで、神社には家康が腰掛けたという石も残されている。


ただ「徳川家康公腰掛石」と表示があるだけで、どの石に腰掛けたのかわからない。
この石に家康が腰掛けたのだ!と断定してくれればありがたいのだが、とりあえずそこらへんの石に弥次さんも腰掛けてみた。


〈家康が腰掛けたというが・・・〉
木原一里塚

手前の左手には「木原一里塚」が残っている。

ほとんどの一里塚は、一里塚跡として石碑が残っているだけだが、ここの一里塚はちゃんと土が盛ってあり、原型をよく留めている。

ただ、この一里塚は復元してあるようで、江戸時代のそのものが残っているわけではないようだ。


〈木原一里塚 立派過ぎてわざとらしい〉

大田川を渡った先を左に折れ、松並木の残る道を進む。
坂の途中で道が二手に分かれるが、石の道標には、右は「大正の道」左は「明治の道」とある。
大正の道のほうに松並木が見えたので、右に進んでしまったが、すぐに国道一号線に出てしまった。

うかつにも事前に地図で確認したはずだったのに、そのまま国道沿いを歩いてしまった。
国道の左側を歩いていたので、右手にあるこの先の「遠州鈴ヶ森」を気づかずに通り過ぎてから気がついた。

左の「明治の道」が正しい旧東海道だったのだ。

この間違った道は、また機会があれば歩いてみたい。


〈見事な松並木が残る〉

ずっと国道一号線を歩いたものだから、見附宿の木戸跡辺りまで来て、「遠州鈴ヶ森」を見ずに通り過ぎたことに気がついた。

やはり、ここは引き返してでも見ておくべきだと思い、旧道を5〜600メートル引き返すことにする。

今まで何度も道を間違えて引き返したが、事前の準備がまだ足りないのと、旧道に対する直感がまだ磨かれていないが、
この後は、結構「この道は旧東海道に違いない」という勘がはたらくようになってきた。


〈三本松常夜灯〉
遠州鈴ヶ森

「遠州鈴ヶ森刑場跡」は、日本左右衛門が江戸で打ち首になったあと、ここで獄門にかけられたという。

小雨は降ってくるし、薄暗く気味が悪かったが、とりあえず首塚に手を合わせて、早々に退散する。

〈遠州でも鈴ヶ森〉
【第28次 見附宿 奈良時代には遠江の国府が置かれ古くから栄えていた】

〈見付・天竜川図 江戸より28番目の宿〉
天竜橋を渡る

 いよいよ今日は天竜橋を歩いて渡る。

これで、日本橋を出発してから、東京と神奈川の境の多摩川、横浜の鶴見川、茅ヶ崎と平塚の境の相模川、小田原の酒匂川、静岡に入ってからは富士川、安倍川、大井川と大きな川を徒歩で渡ってきた。
この川のどれひとつ歩いて渡ったことなどなかった。

普通の人はまずそうであろう。

昔の人は、ほとんどの川に橋などかかっていなかったものだから、浅ければ徒歩で渡り、人足に背負われ、肩車され、あるいは渡しの船に乗り、川ひとつ越えるのが大変であったのだ。

〈天竜川にはほとんど水がなかった〉
見附宿木戸跡

民家の続く旧道を西に向かい、見附宿の木戸跡に到着。

見附は奈良時代には、遠江の国府が置かれ、古くから栄えていた町である。

京都から江戸へ下ると、ここで初めて富士山が見えたことから見附と名がついたというがどうであろうか。


〈見附宿木戸跡〉
見附学校

見附宿は、町全体が江戸時代を意識しているようで、予備校の建物までが宿場風であった。この先には「旧見附学校」があるので是非見学したいと思っていた。

見附学校は明治8年に建てられたもので、現存する日本最古の洋風木造建築小学校校舎である。

現在は、資料館として無料で一般公開されている。中に入ってみると、明治時代の授業風景や、当時の教科書などが展示されている。


〈予備校の建物には見えない〉

〈日本最古の洋風木造の小学校〉

〈明治の小学校はこんなだった?〉

〈むかしの先生は威厳があった〉
姫街道

雰囲気のある「旧見附学校」を出て100メートルほどで突き当りに「遠州見附宿これより姫街道三州御油宿まで」と書かれた道標がある。この先にある浜名湖の今切れの渡しを、船で渡ることを嫌った女性が多く利用したことから「姫街道」と名づけられたという。

この道標から左にほぼ直角に折れる道が旧東海道だ。
右手に遠江国分寺跡を見ながら磐田駅方面にまっすぐ向かい、駅の手前を右に折れる。

おじさん、おばさんの集団ウォーカーがいたが(自分だっておじさんだけど)知らん振りして追い越す。弥次さんはどうも集団で歩くのが苦手なのだ。

4〜5kmは特に見どころもなく、次の目標は天竜川を渡ることだ、


〈これより姫街道〉
天竜川を渡る

天竜川の手前に長森立場と長森かうやくの説明板がある。この立場の山田与左衛門家では、あかぎれや切り傷に効く膏薬を売っていた。この薬は東海道を行きかう旅人や大名行列にも売られ「長森かうやく」として大変な評判を博したという。

天竜川を実際に歩いた人のホームページやガイドブックには、この天竜川には歩道がなく、決死の思いで渡ったとか、あまりに危険なのでバスで渡ったとか書かれている。


しかし、ラッキーなことに今年(平成19年)の1月にりっぱな歩道が完成していたのであった。

旧東海道の渡船場はもう少し上流だったらしいが、往復2キロの距離はちょっとつらいので、そのまま天竜川橋を渡ることにする。

この天竜川も大きい。大井川ほどではないにせよ、対岸ははるかかなたに見える。


〈天竜川橋には立派な歩道ができていた〉
金原明善さん

無事に天竜川橋を渡り終えるとすぐ左に曲がり、土手を降りるとまた西に向かう。しばらくいくと右手に黒塀のりっぱな「金原明善(きんばらめいぜん)生家」がある。向かいは「金原明善記念館」で、初めてきく名前であったが早速入ってみる。

金原明善は明治から大正時代の実業家で、あばれ天竜の名がある天竜川の治水に私財を投入し、生涯を掛けて取り組んだりっぱな人なのであった。

天竜川は、そのころはたびたび氾濫し、下流に暮らす人たちはそのたびに大変な目にあってきた。


〈金原明善さんの生家〉

金原明善さんは私財を投げ打ち、上流の広大な山林に保水のための植林をし、護岸工事をし、ついには天竜川の氾濫をなくしたという。
記念館には、明治天皇から褒章された際に夫婦が着用した服とか、山に植林を見に行くときに使ったかごとか、工事に使った道具などが展示してある。

今回東海道を歩かなければたぶん一生知らなかった名前に違いない。ただ、むかしは教科書にも載っていたそうだ。弥次さんが知らないだけかもしれない。


感服して記念館を出て、生家にも立ち寄り、浜松を目指し再び歩き始める。


〈建物つきの常夜灯〉
浜松宿に入る

この先は浜松駅までほとんど見どころはない。
静岡もそうだったが、空襲で焼けた街は古い建物はまったく残っていない。ただ新しいビルが建ってまっすぐな広い道になっている。
暮らす分には便利な町になったのだろうが、街道歩きの弥次さんにとってはつまらない街並みといえる。

両側のビルの間をひたすら歩いて、浜松アリーナを過ぎ、愛知博の時に泊まったことのあるアクトタワーを越えたところで、左に折れて浜松駅に向かう。


〈アクトタワー 愛知博に行ったときに泊まった〉
 地下の通路は四方八方に分かれていてわかりにくいが、案内にしたがっていくと浜松駅に着いた。
お土産に「浜納豆」と「うなぎのしらすの佃煮」を買って帰ることにする。
名物のうなぎを食べて帰ろうかと思ったが、平塚のお母さんに川万のうなぎのおいしいのをよくもらって食べているのでやめることにした。

それにしても静岡県は歩けど歩けど通過できない。
2月に三島・沼津辺りを歩いてから4ヶ月経つのにまだ静岡県だ。


次回は、浜松から舞阪、浜名湖を越えて新居の関、白須賀、二川宿までを歩く予定だ。
二川宿は愛知県なので、やっと静岡県を脱出できる。

がんばるぞ!!
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