〈十六日目〉 平成19年 5月26日 土曜日 晴れ 箱根湯元〜三島宿 (前編)
【箱根東坂】

〈湯元の三枚橋 旧東海道はこの橋を渡り、畑宿を通って箱根宿に達する〉
〈F・ベアト幕末日本写真集より〉

〈現在の三枚橋 箱根の双子山や箱根湯本の山は江戸時代のままだ〉 

〈駕籠かき F・ベアト幕末日本写真集より〉

〈駕籠かき F・ベアト幕末日本写真集より〉

7日目からいきなり16日目にとんでしまった。
歩いた日も、1月27日から5月26日とちょうど4ヵ月後となった。
この4ヶ月、東海道歩きをサボっていたわけではなく、その間に東海道のどまんなかの宿「袋井」までやっつけていたのだ。

なぜ、箱根八里をこんなに後回しにしたかというと、喜多さんが「箱根は何が何でも一緒に歩きたいが、寒いうちは不安だ。
気候が良くなってから歩きたいので先にいけるところまで行っておいてちょうだい」とのたまわったためだ。

早雲寺

5月の穏やかな日に、ついに箱根の山を越えることになったが、この行程を考えるときに、箱根に一泊するか、それとも一気に三島まで踏破するか迷った。

箱根の芦の湖近くには会社の寮があるので、そこに一泊すると楽勝だが、予約が必要なので雨が降ったりするとキャンセルしなければならず、面倒なことになる。そこで何とか朝早く歩き始めて、一気に三島まで歩くことにした。

計画通りに行けば、のぼりに5時間、くだりに4時間というところだ。
朝6時過ぎの磯子発の電車で小田原まで行き、小田原で小田急に乗り換え箱根湯本へ。
喜多さんに貸した弥次さんの帽子を電車に忘れてスタートからつまずくが、一度行ってみたかった早雲寺を見学してから、箱根の坂道を歩き始める。


〈早雲寺の山門〉
北条早雲の墓

この早雲寺は、北条早雲から五代の墓がある苔むした趣のある北条の菩提寺だ。
このときは北条早雲にあまり興味がなかったため墓の見学は端折ったが、その後司馬遼太郎の「箱根の坂」を読んで、北条早雲こと伊勢新九郎の生き方に大いに興味を持ったので、9月に歩きなおした際に北条五代の墓にお参りした。

小田原であれだけの栄華を極めたのに、びっくりするほど墓は質素であった。
早雲の精神が後々までも生き続けたということであろう。
早雲享年八十八歳


〈北条早雲の墓〉
連歌師宗祇の碑

 ついでに、連歌師宗祇の墓にもお参りする。
この宗祇の出自は、身分は高くなかったが、当時の支配者階級の教養として必須だった連歌の達人であったため、足利将軍をはじめ各地の守護クラスにも師として迎えられた。


宗祇は、早雲の治世方法や生き方に感銘し、随分と早雲のために働いたらしい。 
宗祇は旅の途中、この箱根湯本で亡くなったが、弟子たちが遺骸を担ぎ箱根を越えて三島まで運んで葬ったと説明板にあった。 
だからこの寺にある墓は記念碑というべきであろう。

この墓にお参りした時間は3時過ぎであったが、うっそうとした木に囲まれているため、まるで夜中に撮影したみたいな感じである。
さすがに大人になっても夜中にこんな墓に行く度胸はない。


〈連歌師宗祇の碑〉
畑宿

早雲寺を越えたあたりのコンビニでおやつを調達。
箱根の山中で遭難しても多少は食いつなげるよう準備をする。


正眼寺を越えた辺りで右に下る道がある。古い石畳の残る旧道だ。一度下ってから狭い道をまた上り、もとの自動車道に合流する。ここには、箱根街道一里塚や石でできた馬の水飲み桶がある。このような急坂の石畳は馬も大変であったろう。

金ぴかの趣味の悪い寺を過ぎ、旧道を探しながら接待茶屋跡に着く。
この辺りから畑宿までは、曲がりくねった自動車道を離れたり、また合流したりしながら上っていく。
うっそうとした林を抜け、急な石段を登りきると一気に空が開け、畑宿にたどり着いた。


〈畑宿
畑宿一里塚

 畑宿は、寄木細工で有名な間の宿だ。息子が小学生のころ、寄木細工のからくり箱をわざわざ買いに来たことがある。
今回は、寄木細工は見学せずに、休憩所で少し休んでからまた旧道に向かう。

畑宿の一里塚は、ちゃんと盛り土がそのまま残っている。
その一里塚を通り抜け、箱根七曲を最短距離で突っ切って、ひたすら上り続ける。


この先に、江戸時代の旅人が「あまりのつらさにどんぐりほどの涙こぼれる」とうたった「樫の木坂」がある。
今は、階段が整備されているからさほどには思わなかったが、当時の坂は石ころだらけで、雨が降ればぬかるみ、とんでもない道だったのだろう。

また、「猿滑坂」とか「女転し坂」とか名前を見れば想像がつきそうな地名が多い。

〈畑宿一里塚〉
甘酒橋と甘酒茶屋

見晴茶屋を通りすぎ、古い石畳の道を行くと旧街道「甘酒橋」の表示があった。
この先には、江戸時代初期の創業といわれる「甘酒茶屋」があり、ここの甘酒は甘過ぎずおいしい。


赤穂浪士の神崎与五郎が、馬喰の丑五郎に言いがかりをつけられて、大事の前の小事と、この茶屋でわび証文を書いたという話が伝わっているが、泉岳寺でお参りした赤穂浪士、神崎与五郎の墓と箱根で話がつながった。

この先このようなことが多くある。われわれも甘酒で元気を取り戻して、さらに先に進むことにする。

甘酒茶屋の先から左に入ると、箱根旧街道の立派な案内板があり、石畳が続く道が広がる。


〈甘酒橋

〈甘酒茶屋〉

〈箱根旧道入口〉

〈箱根の石畳〉

〈これより江戸時代の石畳〉
箱根八里は馬でも越すが・・・

江戸時代の旅人の大変さを思いながらも、五月の森のすがすがしさを感じつつ急な石畳を踏みしめる。
しばらく行くと、小学生のときにならった有名な箱根八里の馬子唄の碑があった。

「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川」

実は、箱根越えを後回しにしたために、越すに越されぬ大井川は、3月31日にすでに越していたのであった。このときの話は、またあとで。


〈箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川〉
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