〈15日目〉 平成19年(2007)4月7日 土曜日 晴れのち小雨 金谷宿〜日坂宿〜掛川宿〜袋井宿
【第24次 金谷宿 復元された石畳を通って小夜の中山へ】

〈金谷・大井川遠岸 江戸より24番目の宿〉
金谷宿へ

 広重の「島田・大井川駿岸」と「金谷・大井川遠岸」は、題材が大井川なので双方とも川越でよく似ている。島田の方は俯瞰図で大名行列、金谷の方はちょうど今の橋のあたりから見た感じだろうか、庶民が川越しをしている感じだ。

〈春の大井川 台風でも来ないと水量は大したことない
金谷宿の石畳

 今日は喜多さんが参加しないので、一人で金谷から袋井まで歩くことになる。磯子から金谷までこの春最後の青春18きっぷを使い、8時半ころ金谷駅に到着。先週途中まで歩いた「金谷宿石畳」からまた歩き始める。

箱根越えはひと月も先のことになるので、旧東海道で石畳を歩くのは初めてであった。朝早いので石畳茶屋も開いていない。

〈金谷 石畳上り口〉
石畳茶屋と丸い石
 
 急坂の石畳を歩き始めたが、この石畳は平成3年に「平成の道普請」として金谷町の人たちによって復元された道だそうだ。

このような山の中にどうしてこんなに丸い石がたくさんあるのだろうか。先週、蓬莱橋を渡った時にその答えを知った。今は想像するのも難しいが、昔はこの辺りの牧ノ原台地を大井川が流れていて、その時に上流から流されてきた石がこの辺りにたくさん残っているのだそうだ。だから遠くから石を運ばなくても、この辺りにはこのような丸い石がたくさんあるのだという。

〈石畳茶屋〉
 
すべらず地蔵

 右の写真の奥にあるお堂は「すべらず地蔵」といい、受験生がよくお参りに訪れているという。しかし、この石畳はやたら丸いので雨が降るとよく滑るに違いない。

430mの石畳を上り切ると、牧の原〈諏訪原)の大茶畑が左に広がる。その先の右手に「諏訪原城跡」がある。

〈すべらず地蔵 そうは言ってもこんな丸石だとすべる〉
諏訪原城跡

「諏訪原城」は、天正元年(1573)武田勝頼が馬場氏勝に命じて築いた山城で、武田氏にとっては最大の敵であった浜松城の家康に対する最前線基地として築かれた天然の要害である。

人気のまったくない城跡を案内板に沿って進むと、今でも当時の堀の跡が深々と残っている。二の丸、三の丸はいまではみんな茶畑になり、当時をしのばせるのは深く掘られた堀跡のみである。四百数十年前にこの諏訪原城でどのような戦いがあったのだろうか。茶畑になった城跡にたたずんでひとり目を閉じると、つわものどものおめき声が聞こえてきそうである。


〈諏訪原城跡 今はほとんどお茶畑になっている〉
菊川坂の石畳

 諏訪原城を出て右に進み県道34号線を越えると、今度は「菊川坂の石畳」が下り坂になっている。

そこの休憩所で若い旅人が休んでいた。やはり東海道を歩く同好の士かなと思ったが、シャイな弥次さんは特に声をかけることなく通りすぎる。この人とは、日坂を過ぎて掛川近くになるまであと先になって歩いた。

〈菊川坂の石畳〉
 

〈山の中腹には「茶」の文字が〉

〈美しい茶畑が広がる〉
広大な茶畑が広がる

 この「菊川の石畳」も、平成13年に菊川の住民の手によって復活した石畳だそうだ。全長611m、気持ちよく下っていくと猫が日向ぼっこをしていた。

この菊川の里は鎌倉時代から知られた間の宿で、今も静かな山間の村である。このあたりは右も左も360度茶畑が広がる。坂は急だが歩いていて気持ちがいい。

〈菊川の石畳 猫が日向ぼっこをしていた〉
久遠寺

 この「小夜の中山」は、箱根峠、鈴鹿峠とともに東海道の三大難所といわれた急坂の道だ。箭置坂(やおきざか)を上り切ると「久遠寺(きゅうえんじ)」が右手に見えてくる。

久遠寺は奈良時代の開基と伝えられる家康ゆかりの真言宗の名刹であるが、門前にはじじばばがたむろして話し込んでいた。ちょうどコンビニの前にたむろしている中学生のような感じで、地べたに座り込んで話をしている横を通りぬけ境内に入ってみる。境内には、掛川城主の山内一豊が茶室を設け、関ヶ原に向かう徳川家康をもてなしたという「接待茶屋跡」や、ちょっと気になる「夜泣き石」もある。

〈久遠寺の夜泣き石〉
「夜泣き石の伝説」

小夜の中山に住むお石という女が、菊川から帰る途中街道にある丸石の横で急に産気づいた。通りすがりの轟業右衛門が介抱するが、お石がお金を持っているのを知ると、彼女を殺して金を奪ってしまった。お石は子どもを産み落としてから息絶え、子どもは久遠寺の和尚に育てられたが、お石の霊は丸石に取り憑いて石は夜毎に泣いた。その話を聞いた弘法大師が、この石に経文を刻んで供養するとそれを境に泣き声はやんだという。


〈石には弘法大師が彫った文字があるという〉
 

〈山内一豊が家康をもてなした茶亭跡 ゴマをすりまくった〉

〈阿仏尼の句碑 さよの中山は句碑が多い〉
子育て飴の扇屋

 久遠寺のとなりには扇屋という茶屋があり、ここの名物「子育て飴」は久遠寺の和尚がお石の子を育てるときになめさせた飴だという。しかし残念なことに弥次さんが歩いたときには店は閉まっていた。おばあさんがひとりで営業していたらしいが、何年か前に閉店したらしい。その後、週刊誌にこういう記事が出ているのを見つけた。
『6年前、扇屋の最後の女主人が104歳で亡くなったあと、店は跡を継ぐ人もなく、休業状態になっていた。名物を絶やしたくないという市の要請を受けて、扇屋さんの近くに住む農家の中から鈴木さんが名乗りを上げた・・・』注文すると店主の鈴木さんが割り箸の先に麦芽糖から作った琥珀色の飴を巻き取ってくれる。2008年3月に再度喜多さんと歩いた時に、この「子育て飴」を注文してなめてみた。

〈子育て飴の扇屋〉
 

〈どこまでも広がるお茶畑〉
小夜の中山

 向かいは小夜の中山公園で、西行の大きな碑がある。「年たけてまた越ゆべしと思いきや命なりけり小夜の中山」西行が69歳の時の作だという。その歳でこの坂はさぞ大変だったろうと思う。

ここには橘為仲朝臣の歌碑もある。
「旅寝するさよの中山さよ中に鹿ぞなくなる妻や恋しき」

〈どこかなつかしい風景が広がる〉
 
涼み松

 またしばらく行くと「涼み松の碑」がある。「命なりわずかの笠の下涼み」芭蕉がこの松の木の下でこの句を詠んだために、この松を「涼み松」という。

その先をさらに行くと、道の左に「夜泣き石跡」の標柱がある。夜泣き石は明治元年
(1868)までこの場所の道の真ん中にあったが、明治天皇が東京に行く際に道の脇に寄せられ、その後東京の博覧会に出品されたという。広重の五十三次「日坂・小夜の中山」には、道の真ん中にある丸い夜泣き石を旅人が拝んでいるのか、見物しているのかそういう情景が描かれている。

〈芭蕉の句碑 この辺りの松の下で芭蕉は涼んだという〉
【第25次 日坂宿 東海道本線が菊川に迂回したため江戸時代が残る】

〈日坂・小夜の中山 江戸より25番目の宿〉
道の真ん中にあった夜泣き石

 この写真の坂道が、広重が描いた小夜の中山の夜泣き石のあった坂道である。この夜泣き石は、明治のころ博覧会に出品してひと儲けをたくらんだ人があったようだ。しかし、この石が本当に泣くわけがない。さらに、張りぼての石の中に人を入れて、実際に泣いて見せた別の夜泣き石の見世物が出て、この泣かない石はさらに評判を落とす。

儲からなかった人は帰りに、国道沿いの道脇に捨ててしまったのだという。嘘のような話だが、昔の不思議な話はこの程度のものだ。どこまで行っても茶畑が広がる。


〈広重の描いた坂道 この道の真ん中に夜泣き石はあった〉
 

〈明治初年まで夜泣き石があったという場所に碑があった〉

〈路傍の広重画〉
沓掛

 日坂へ向かう最後の下り「二の曲がり」は滑り台ほどの急な坂道だ。旅人はこの坂で草履を履き替え、古草履を木に掛けたことから「沓掛(くつかけ)」ともよばれた。

坂を下り切ると日坂
(にっさか)宿である。国道一号線を越えると日坂の街に入ってゆく。

〈沓掛〉
旅籠 川坂屋

日坂宿は、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠33軒と東海道で3番目に小さい宿場だった。

この日坂では、歩いていてほとんど人に出会わなかったが、宿場の西のはずれに、当時の面影がそのまま残る旅籠「川坂屋」が資料館として公開されている。この「川坂屋」は旅籠としては、明治3年まで営業していたそうだ。


〈旅籠 川坂屋〉
 見学した際、ボランティアのガイドのおじさんにいろいろと教えてもらった。この日坂宿は、明治時代に東海道本線が通るのを村を挙げて反対したそうだ。だから地図で見ると、東海道本線は南に大きく迂回して菊川を通っている。そのため、今の日坂の町はさびれにさびれているが、逆に旧東海道を歩く旅人には江戸時代の風情の残る渋い町だと言える。新しい文明がやってくるときは、人は臆病なものなのだ。

しかし、ある人いわく、実際には地元の反対で線路が迂回した例は皆無に等しく、実際には地形によるもっとも現実的な敷設ルートであったという。

〈日坂宿 高札場〉
事任八幡宮

日坂宿を出て国道1号線に合流すると、左に「事任(ことのまま)八幡宮」がある。大同2年(807)坂上田村麻呂が興したと伝えられる古社で、願いがことのままに叶うとして評判を呼んだ。

境内には樹齢千年といわれる杉の巨木が立っている。この「事任八幡宮」は清少納言の「春はあけぼの・・・」で始まる枕草子にも書かれているらしい。古典好きの弥次さんであるが、まったく記憶にない。今度じっくりと読んでみようと思う。


〈事任八幡宮 ことのままに願いが叶うそうな〉
「事任八幡宮」を出て左に折れ、田園地帯を進むとそこは「嫁ヶ田、姑ヶ畑」という何とも陰惨な伝説が残る場所だ。

嫁ヶ田、姑ヶ畑の伝説

むかし、嫁当たりの悪い姑がいて、嫁に一反の田を朝の間に植えさせた。嫁は言いつけ通りに植え終わったが、石に腰かけたまま息が絶えてしまった。そのとき姑は畑にいたが、雷にうたれて死んでしまったという。




〈このあたりで意地の悪い婆に嫁はいびり殺された
 
ばくろう橋

 さらに国道を越え、左の道を行くとその先に諏訪神社がある。学校帰りの中学生とたくさんすれ違ったが、ほとんどの子どもが「こんにちわ〜」と声をかけてくれる。なんとも気分のいいことだ。おじさんが子どもに声をかけると、あやしいオヤジに思われる都会の風潮はここにはない。おじさんも気持ちよく「こんにちわ〜」と返す。

しかし、このあたりから掛川まではほとんど見どころもない。逆川にかかる「馬喰橋」には馬の顔がモチーフで飾られていた。むかしは、ばくろうが馬を売っていた場所なのだろうか。


〈ばくろう橋 馬の顔が・・・〉
【第26次 掛川宿 山内一豊と妻千代が作った城下町】

〈掛川・秋葉山遠望 江戸より26番目の宿〉
掛川城

 新町の七曲りをたどると、その先に掛川城が見えてきた。掛川は、山内一豊がその妻千代と一緒に作り上げた城下町である。掛川城は天明年間(1469〜1487)に築かれたが、嘉永7年(1854)の大地震でほとんどが倒壊したらしい。

〈掛川城遠望〉
二の丸御殿は国重要文化財

 その中で二の丸御殿は江戸時代の建物が現存し、国の重要文化財に指定されている。

城は平成6年にコンクリートではなく木造で再建された。弥次さんは早速天守閣に上がって掛川の町を見下ろし、城主の気分を味わって見る。二の丸御殿は、江戸時代に政務を執っていたところらしいが、あまり古びてなくやたら広い御殿であった。

〈掛川城 山内一豊と千代が築き上げた〉
 

〈七曲り 敵の侵入に備え道をまっすぐに作らなかった〉

〈七曲にいた猫もひたすらダラダラしている〉

〈重要文化財 二の丸御殿〉

〈領民は不自由なく暮らしているか・・・一豊の気持ちになってみる〉
平将門 十九首塚

今日はまだもう少し歩かなければならないので、早々に掛川城をあとにしてさらに西を目指す。

この先の住宅地に「平将門の十九首塚」があるが、案内表示がなければとてもたどり着けない場所である。この日歩いたときには、平将門について詳しい知識があったわけではないので、ふ〜んこのようなところに将門の首塚がね〜・・・という程度の感慨であった。高校の日本史では、将門の乱は朝廷に対する反乱であり、朝敵としてとんでもない悪人という風にならったような気がする。


〈平将門 十九首塚〉
 
 数か月先に海音寺潮五郎の「平将門」を読み直して、将門に対する偏見が一変した。現代の歴史の世界でも、将門に対する評価はまったく違うものになっているらしく、明治になってから朝廷を神聖化するためにどうも悪役にされたようだ。江戸時代には、大納言烏丸光広により「朝敵にあらず」とされている。

歴史というものは、常に勝者側にたって作られるもので、負けた側はゆがめられた歴史を背負い込まざるを得ない。

〈十九首塚由来 歴史は常に勝者の側で書かれる〉
 
 天慶3年(940)、藤原秀郷と幼馴染の平貞盛の連合軍に敗れた将門の首は、京に送られる途中この場所で出会った
京からの使者と首実検を行い、首は京に送られることなく18人の武将の首とともに埋められたという。この時には
まったく知らなかった将門の武将たちの名前も、あとで写真を見ると塚に刻んであるのがわかる。このように歴史を
知って歩くのと、ただ漫然と歩くのでは心にとめる事柄が天地の差だということを実感する。


東海道は、歴史にいろどられた街道だ。こうしてここまで歩いてきて、司馬遼太郎や海音寺潮五郎や池波正太郎など
の歴史小説の大御所のえがいた舞台をじかに見ることができ、感じることができる。学生の時には、大衆小説なんか
と馬鹿にして、司馬遼太郎や池波正太郎の小説なんか見向きもしなかった。純文学だ、阿部公房だ、大江健三郎だ、
福永武彦だとやたら小難しい本ばかり読んでいたが、歳をとると歴史がおもしろい。また、本を読む楽しみが増えた。
富士浅間宮の赤鳥居

 この先は特に見どころもないが、松並木を4〜5km過ぎた先に突然大きな赤い鳥居が現れる。富士浅間宮の赤鳥居だ。

この先の妙日寺には日蓮上人の先祖代々の墓があるというが、日蓮上人には今のところ特に興味もないので通りすぎる。

〈富士浅間宮の赤鳥居〉
【第27次 袋井宿 東海道のちょうど中間の宿】
東海道どまんなかの宿

 さらに松並木を通りすぎると、いよいよ東海道五十三次の真ん中の宿袋井宿に着く。袋井宿は、江戸・京のどちらから数えても27番目の宿場にあたり、ちょうど中間の宿となるため「東海道ど真ん中の宿」が売り物となっている。

小学校の門にも、「東海道五十三次ど真ん中東小学校」と看板が出ているし、「東海道ど真ん中茶屋」もある。その先の東海道どまん中茶屋にたどりついたら、茶屋の人たちが歓待してくれた。

 
東海道どまん中茶屋

 この日ウォーキング大会があったらしく、「あんたで最後かい?」みたいなことを言われた。「いや、僕は日本橋からずっと歩いてきて、やっと真ん中の袋井宿までたどり着いたんです。」と言ってみた。おじさん、おばさんが数人いたがみんな感心してくれて、「どこから来たか」とか「お茶でも飲め」とか「これにサインしてくれ」とか奉加帳のようなものまで出される始末。

〈やっとまん中の宿〉
 
東海道を歩いている人で、この茶屋に立ち寄った人には、サインをしてもらっているのだそうだ。お茶と漬物をごちそう
になり、写真も撮ってもらって、駅までの道を教えてもらい、本日の東海道歩き旅は終了。教えてもらった道をたどって、
青春18キップで一人さびしく帰った。
   
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